2015年03月18日17時33分

ずば抜けた才能より、努力で「脇役の一流」をめざす 宮本 慎也


「守りだけやから〝自衛隊〟やな……」
野村克也監督のそんな容赦のない批評に、
二五歳のルーキー・宮本は、ひそかに燃えていた。
一七六センチの小さな体を、まるで将棋の「歩」のように、
一歩、一歩、前に進める日々。そして四一歳五か月――。
史上もっとも遅いあゆみで、宮本は、
プロ通算二〇〇〇本安打を達成していた。
「歩」は、知力と努力で「と金」となって、
誰からも頼りにされる、名選手になったのである。




木村政雄編集長スペシャルインタビュー
宮本 慎也


ずば抜けた才能より、努力で「脇役の一流」をめざす

木村 一九年間、本当にお疲れさまでした!宮本さんは一九九四年にヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団、ヤクルトひとすじに活躍されました。引退会見で「プロになって、野球をやって楽しいと感じたことがありませんでした」という言葉が印象的でした。宮本さんは、プロ野球選手としては小柄で、そんなに長打力があるわけでもありません。プロ野球ファンの私も、宮本さんに注目するようになったのは二〇〇四年のアテネ五輪で、日本代表のキャプテンを務め、チームを銅メダル獲得に牽引された頃からです。その後二〇〇六年のWBC(ワールドベースボールクラシック)で日本代表、二〇〇八年の北京五輪でもキャプテンを務められました。また、二〇〇五年から三年間は日本プロ野球選手会会長としてプロ野球選手をまとめて、一二球団と交渉し、宮本さんならではのキャプテンシーをいかんなく発揮されたわけですが。



宮本 僕がキャプテンに選ばれたのは、年齢的なこともあったんだと思います。アテネ五輪の予選のとき、代表監督の長嶋茂雄さんからお話があり、たまたま、うまくいったものだから、「北京五輪でも」という感じ。おかげで僕の野球人生も変わりました。それまで街を歩いていても、誰にも気づかれなかったのに、あちこちで声を掛けられるようになって(笑)。

木村 でも、自ら「ズバ抜けた素質はない」とおっしゃりながら、一九年間の現役生活の成績がすごいじゃないですか。ショートとサードを合わせて、ゴールデングラブ賞を一〇回、生涯打率二割八分二厘。二〇一二年には、四一歳で、二〇〇〇本安打達成……。小柄な体でこれほどの成績を残すには、大変な努力と研鑽が必要だったはずで、「野球をやって楽しいと感じる」ゆとりなんてなかったんだろうなと納得しました。
ところでヤクルトへの入団は、当時のヤクルト監督である野村克也さんの「内野の守備ができる選手を取れ」という指令のもと、いまの小川淳司監督にスカウトされたんでしたね。

宮本 そうです。僕を見いだしてくれた小川監督のもとで引退できたのですから、これほど幸せな野球人生はありません。

木村 プロになったとき、二〇〇〇本安打を達成できると思っていましたか?

宮本 全然、思っていなかったです。なんとか一〇年続けられればいいかなというレベルで……。二〇〇〇本安打が近づいてきたときには、僕でいいのかなと正直戸惑いました。日本プロ野球名球会というと、王貞治さん、長嶋さんという、野球を知らない人でもみんなが知っている人たちの集まり。自分がそこにいるのが、いまだに不思議です。

木村 去年一二月に出版された、宮本さんの半生を書かれた『歩〜私の生き方考え方』(小学館)を読ませていただいたんですが、タイトルの『歩』は、宮本さんの人生の「あゆみ」と、将棋の駒の「歩」を掛けてあるんですね。特別な力を持たない、その他大勢の「歩」が、いったん敵陣に入ると「と金」となって、大暴れする。まさに宮本さんの野球人生そのものだと思いました。

宮本 ありがとうございます。僕のような特別な素質を持たない人間でも、こつこつ努力を重ねれば、それなりの選手になれる。そのあたりを伝えたくて書いた本です。


PLから同志社大学、プリンスホテルへ
体育会系の部活は先輩・後輩の線引きが厳しい


木村 昨年暮れ、CS放送で片岡篤史さん、立浪和義さん、橋本清さんたちPL学園の先輩たちとのトーク番組に出演されていましたよね。皆さん一年先輩の人たちですが、宮本さん、やけにおとなしかった気がするんですが。

宮本 PL学園は、先輩の言うことは絶対というところがあって、その一線を越えて議論する勇気がないんです(笑)。もちろん、最近は柔らかくなっておられますし、よく相談もさせてもらいますが、僕が一年後輩という立場は、決して変わりません。

木村 じゃあ、清原(和博)さんや桑田(真澄)さんだと?

宮本 僕にとっては〝神様〟です(笑)。



木村 たしか、PL学園の野球部って全寮制なんですよね。

宮本 はい。寮にはいろんな決まりがありまして、中にはけっこう理不尽なことも多いんです。代表的なのが「一年生は目覚まし時計のベルを鳴らしてはいけない」。先輩は六時半起床で、一年生は六時起床。一緒に寝ていますから、一年生はベルが鳴る前に自分で起きなきゃいけないんです。それから「一年生はカレーを箸で食べる」とか、「ジュースを飲んだらいけない」とか。理不尽を通り越して意味が分かりませんが、僕は、あの一年があるから、忍耐力が培われたと感謝しています。

木村 甲子園に出場するような高校は、野球部員が一学年一〇〇人とか普通なんでしょうが、PLは少ないんだそうですね。

宮本 二〇人弱ですね。僕のときは一七人でした。野球部には、入学前にスカウトされた人しか入れないんです。

木村 そこに入られたということは、それまでから相当目立っていたわけですね。何歳頃から野球を始められたんですか。

宮本 親父が長嶋さんのファンで、当然巨人ファンでもあったので、小さい頃から野球に囲まれて育ちました。少年野球には小学三年の秋に入団。中学校で硬式野球のシニアリーグ(摂津シニア)に入り、PL学園から誘っていただきました。当時のPLは清原・桑田さんたちの黄金時代で、入部してもレギュラーが取れないといって敬遠する人もいたから、僕が入れたんです。 

木村 PL学園二年生のとき、甲子園春夏制覇を果たされました。当然東京の大学をめざされるはずだと思うんですが、どうして、同志社を選ばれたんですか? 

宮本 僕が三年生の四月の段階で、熱心に声をかけてもらっていたんです。同志社に入っているPLの先輩が「一緒にやろう」と言ってくれたこともあって、決めました。でも、思いのほか勉強が大変で、五年がかりで卒業したんですよ。

木村 ちなみに私も一応、宮本さんの先輩になるんですが、こんな後輩がいていただいて誇らしいですね。で、二年生のときに、関西学生リーグで首位打者になられて、明治神宮野球大会で優勝されたんですね。

宮本 そうです。同志社大学に行ってよかったなと思うのは、PLでは、みんなプロになる気でやっていますから、ある意味、ギスギスしたところもありました。それが同志社大学では一般の人たちが入部して来るんです。お世辞にも上手とは言えないですが、先輩にむちゃくちゃ走らされても、リーグ戦で一打席打ちたいとか、一試合投げたいとか言ってがんばる。その先にプロ野球はないんです。それまでプロをめざしてやってきた野球とはちょっと違っていて、僕にとっては、そういう野球観がプラスになったと思います。

木村 それから、名門プリンスホテルへ行かれたわけですが、早くプロに入りたいとは思われなかったんですか。

宮本 本当はプロに行きたかったんですが、指名順位が下位だったんです。監督に相談したら、「二年間社会人野球に行って、評価を上げてからプロに入ってはどうか」と。僕は「二年間でケガしたらどうするんですか、評価が落ちたらどうするんですか」と聞いたんですが、「お前はプロに行きたいのか、プロで活躍したいのかどっちだ」と聞かれた。もちろん「活躍したい」と言ったら、「二年間で評価が落ちるような奴が、プロに入って活躍できるわけがない」と言われ、そのひと言に妙に納得して、プリンスホテルでお世話になることにしたんです。

木村 結果としては、その方がよかったわけですね。

宮本 はい。ホテルの業務はしていませんが、自分が働いて給料をもらって、お金の大切さや、社会人としての一般常識を学ぶことができました。二年後、ヤクルトを逆指名し、ドラフト二位で入れたので、うれしかったです。実は、巨人のスカウトからも電話をもらったんですが、冷静に考えて、巨人では難しいと思い、断りました。もし、巨人に入っていたら、おそらく五年前後で見切られていたと思います。


小さい体の選手がスタメンで活躍するには
頭を使い、「脇役の一流」をめざせ




木村 ヤクルトに入団されて、最初の監督が野村監督でした。イヤな感じの人じゃなかったですか(笑)。

宮本 いえ、入ったときは、ただ、単に怖くて、どうやったら怒られないかと考えていました。でもプロ野球で生きていくためには、最初に野村監督に出会えたのは、よかったと思います。順番が違うと、やはり、僕の野球人生も変わっていたと思いますね。

木村 宮本さんは「守備の人」ということで、〝自衛隊〟と呼ばれたとか?

宮本 直接ではないんですが、新聞を通した発信で「守るだけの選手」と言われていました。いまになって思えば、守備に対しての褒め言葉でもあったでしょうし、もっと打てという叱咤激励でもあったと思います。それに対して僕は、心の中で「いまに見ていろ」と燃えていました。小さい選手というのは、大きい選手に勝つにはどうしたらいいのか、色々工夫してプレーしているんです。普通にやっていたのではレギュラーを取れませんから、常にそれを考えていますね。

木村 野村監督に「脇役の一流をめざせ」と言われたのが、教訓になったということですね。

宮本 プロ野球選手というのは「おれが主役や、いや、おれが主役や」という人の集まりだからこそ、「脇役の一流」という立場もあるとおっしゃったんです。ミーティングの中で聞いて、僕がめざすべき方向だと思いました。二五歳のプロ一年生で、いかにもスタートが遅いし、小さいし……。野村さんに最初に出会えて、自分の方向性を示してもらって迷わずスタートできたのは、ありがたかったですね。

木村 若松勉監督時代には、中西太さんからバッティングのコーチを受けられたんですよね。

宮本 これも順番だと思うんですけど、野村監督は僕がサードゴロ、ショートゴロを打ってもチームのためにならないと。右方向に打つことが真髄だとずっと言われていたんですけど、中西さんが来られて、もちろんそういうのも大事だけど、インコースに来たら、引っ張っていいし、素直にバッティングしなさいと。専門的にいうと、アウトコースの低めを、いかに強くたたけるかという練習をすれば、あとは打てる、という指導でした。言われた通りに反復練習をして、僕なりの打撃がだんだん身に付いて、二〇〇〇本安打につながったんだと思います。

木村 大学、社会人野球からプロになった人で、二〇〇〇本安打を達成したのは古田敦也さんと宮本さんだけですから大したものです。お尋ねしたかったのは、チームの垣根を越えて巨人の坂本勇人選手を指導されたことがありましたよね。そういうのは先輩・後輩じゃなくても、うれしいものなんですか。

宮本 別に、うれしく感じることもないですし、教えたくないという気持ちもないですね。ヤクルトのメンバーで自主トレをやっている中に「来たい」と言う彼の気持ちと、「僕でいいのなら」という気持ちで受け入れました。賛否両論ありましたが、僕は球界全体のレベルが上がったほうが絶対いいと思うから、自主トレ期間はお互いに各チーム高め合う期間だと思っている。坂本選手が来ることによって、ヤクルトの若い選手も刺激を受けるわけですから。


家族への愛に包まれたプロ野球人生に感謝
「子どもたちに野球の面白さを伝えたい!」


木村 私が、この本を読んでいちばん感激したのは、二〇一一年、奥さまが甲状腺ポリープを患われたとき、もし、悪性腫瘍だったら、野球を辞めて付き添ってやりたい。それで二〇〇〇本安打の記録が達成できなくてもいいとおっしゃっている箇所ですね。すごい決断だなと思いました。

宮本 やはり、嫁さんが、いろいろやってくれたから、ここまでこられたのであって、悔いはないと思いました。僕は野球でしか家族を守ることはできないので、もし悪性腫瘍なら、家族のために好きな野球を辞めるし、良性なら、家族を守るために野球をする。嘘偽りのない気持ちでした。幸い、良性で、野球を続けることができました。

木村 奥さまも、宮本さんの決意に、きっと喜んでおられますよ。

宮本 家のことは嫁に任せきりできましたから、まだ「チャラになった」くらいじゃないですかね(笑)。

木村 一方、お母さまは、腹が据わった方ですね。

宮本 何をやっても強烈な〝おかん〟です。母の父親、つまり僕の祖父は大阪の府会議員をやっていたんです。母が、五つも若い親父と結婚すると言い出して、祖父からは反対されたみたいです。

木村 いま、お母さまはおいくつですか。

宮本 六八歳で、父は六三歳です。

木村 ええ!? 私は六七歳ですよ。こんなに大きな息子がいたら、いやですね(笑)。宮本さんが小学生のとき高熱が出て、お医者さんが「休ませなさい」とおっしゃっているのに、お母さんが「死んだら、私が責任とります」と言われたのは本当ですか?

宮本 本当です。親だから言えたことで絶対、読者の方はマネしちゃだめです。当時、僕はピッチャーだったんですが、おかん曰く「この子、きょう、投げないといけないので、熱を下げてください」。先生が「何があっても知りませんよ」と言われ、母は「はい、この子も、試合中に死んだら本望でしょうから」なんて言っている。少年野球は準決勝・決勝と、同じ日にやるんです。何とか熱が下がったので、二試合とも完投し、優勝したんですが、どういう試合だったのか全く記憶がない。帰宅してから、母は看病してくれましたけど……。あの頃、僕がいちばんいやだったのは月一回のお楽しみで、家族でファミリーレストランに行くんです。ディナーセットを食べるんですが、セットだからコーヒーがつく。子どもの僕は、コーヒーとかいらないから別にパフェを頼む。すると、店の人が「別料金になりますけどいいですか」と説明する。おかんはパーンと言い返すんです。「そんなこと、分かってます!」。父親ともよくケンカするんですが、父はけっこう根に持つタイプで、母はケロッとして、すぐに「ねえ、お父さん」ですからね(笑)。

木村 引退を決意されたときに、お母さまは何とおっしゃいました?

宮本 「やめたらええ」と、ひと言。拍子抜けしました。以前は「一年でも長くやってほしい」と言っていましたが、「ベンチに控えている息子の姿を見たくない」と。やっぱり、いつまでたっても、母にとって、僕は息子でしかないんですね。

木村 四二歳の最後の一年は、きつかったですか。

宮本 本当は二〇一二年で辞めるつもりで球団にも話していたんですが、小川監督から「一緒に戦ってくれ」と言われ、現役続行を決めました。あのまま辞めていたら、こんな、いやな思いをたくさんしないでもよかったのにと、ずっと思っていました。現役を続けるためには、自分で言うのも何ですが、僕はものすごく練習するんです。しかし引退会見してからは、もう一年やってよかったと思いました。いい話だけで終わらないで、いろんな経験をした、だからこそ二〇一三年で辞めてもええんやなと。

木村 宮本さんのプロ野球人生を振り返ってみると、最後の一年にすごく意味があったんですね。今後は、野球評論家・解説者として活躍されるんですが、私としては一年でも早く、監督をやってほしいですね。

宮本 監督は、ぜひ、やりたいです。

木村 海外の野球も含めて、いろいろ勉強されるのでしょうけど、先輩からのお願いとして、どうか芸能プロダクションだけには入らないでください(笑)。

宮本 はい、大丈夫です。僕が、いますぐやりたいのは、野球のすそ野を広げるような活動です。いま、少年野球がサッカーに押されて、大変なんです。サッカーは幼稚園でも盛んになってきていて、野球少年は減る一方。このごろ公園でキャッチボールができなくなっているんですよ。野球も、幼稚園でなじんでもらえるような方法を考えないと、野球の未来はない。強い危機感を持っています。

木村 そういえば、本の中でも、息子さんを野球好きにするのに苦労されたエピソードが面白かったです。小学生や幼稚園児が、三角ベースなんかで、また遊ぶようになるといいですね。

宮本 小さい頃から野球に打ち込むことで、人生を学べますし、たくさんの出会いにも恵まれます。将来、ほかのスポーツや仕事に変わったとしても、野球で培ったベースは、きっと人間形成に役立つと思います。

木村 そうですね。野球のすそ野を、ぜひ広げていってください。期待しています。本日はありがとうございました。



対談後記

宮本さんは、PL学園で監督だった中村順司さんから贈られた「球道即人道」という言葉を座右の銘にしてきたという。「野球という競技に打ち込む姿は、人生に向き合う姿に等しい。生きることに懸命でない人間は、野球でも良いプレーなどできるはずがない」ということらしいが、この人はまさにそれを実践されてきたのだろうと思う。野球知識も豊富で人望も厚い。社会人を経験したことや、選手会長を務めたこともあって視野も広い。あの野村克也さんが「教え子の同期生宮本さんと稲葉さんが監督として日本シリーズを戦うのを見られたら、死んでもいい」とおっしゃったそうだが、なるたけ早く実現をしてほしいものだ。対談の後、引退記念のユニフォームのレプリカと、背番号6の後姿が入った腕時計をいただいた。有り難うございます。宮本さんが監督になられたら、すぐにもヤクルトファンに転向しなければいけないな。 



宮本 慎也(みやもと・しんや)1970年11月5日、大阪府吹田市出身。野球評論家、NHK野球解説者、元・東京ヤクルトスワローズ内野手。身長176センチ・体重82キロ。PL学園高校2年時に春夏の甲子園で優勝を経験。同志社大学進学後、2年春のリーグ戦で首位打者。社会人野球のプリンスホテルを経て1994年、守備を評価されドラフト2位でヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)入団。ポジションは遊撃手、三塁手、二塁手。右投げ右打ち。1997年ゴールデングラブ賞を受賞、2001年には2番打者としてシーズン最多で日本記録、世界タイ記録となる67犠打を記録し、ヤクルトの日本一に貢献。2004年アテネ五輪代表に選ばれ、キャプテンを務め、銅メダルを獲得。2006年WBC代表、2008年北京五輪代表となり、キャプテンを務める。2012年、41歳5ヵ月の最年長記録でプロ通算2000本安打を達成。選手兼任コーチとなった2013年限りで引退。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞10回、2006年WBC日本代表チームとして春の紫綬褒章受章。




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