2015年05月28日16時42分

山田敏之 こと京都株式会社 代表取締役

山田敏之 こと京都株式会社 代表取締役



山田敏之(やまだ としゆき)
1995 年、アパレルメーカーから転職して就農。2002 年に「こと京都 株式会社」の前身となる「有限会社 竹田の子守唄」を設立。2007 年に社名を変更して「こと京都 株式会社」となった。


新しい事を始めるたびに
父が反対してくれたおかげで、
堅実な経営ができた


京都の伝統野菜、九条ねぎ。現在では京都以外の都市でも目にすることが増えたが、安定的な生産と流通経路が確立された陰には、九条ねぎひとつで事業を起こした山田さんの努力があった。

 畑一面に栽培された緑色の九条ねぎ。風に吹かれてそよぐ様子は、まるで波打つ海面のようだ。九条ねぎは他の白ねぎなどと違い、長くて柔らかく、甘い風味が特徴だ。細かく刻んで薬味として使用されることが多いが、京都では5センチほどの長さに切った九条ねぎと肉だけですき焼きを食べる。「我々は美味しいものだけを作ることにこだわり続けています」と、「こと京都」株式会社の山田敏之社長は言う。

 付近には他の生産者の九条ねぎの畑もあるが、「こと京都」の畑は一目でわかる。九条ねぎの栽培には珍しく、黒いビニールを土の上に被せているのだ。農薬を減少させて雑草を防ぐための工夫である。



 「私の父親の世代が農業をしていた頃は、農薬や肥料はまだ開発されたばかりで、まるで魔法のように重宝されていました。しかし、20年前に私が就農した時には、すでにEM菌が発見されていて、これから少しずつ環境問題や無農薬への取り組みが大切になるだろうという予感がしていました」

 安定して供給するために、周年栽培にも取り組んでいる。九条ねぎは暑さに弱く、夏季は夜でも30度を超えてしまう京都市内では、生育が厳しい。

 「現在の気温に適して、通年美味しいねぎを作るために、夏は京都市よりも北部に位置し、夜は温度が下がる美山町と、西部に位置する亀岡市で栽培して、冬は京都市内で栽培する、というように産地リレーを行っています」

現在、京都全体の九条ねぎの生産量は約6000 トン。そのうちの約2000 トンを「こと京都」が栽培している。夏場の8、9、10月だけで見ると、「こと京都」の生産量は全体の50パーセントも占めていることになる。

 1995 年。3人兄弟の次男として生まれ、実家の農業は継がずにアパレルメーカーの営業職に就いていた山田さんに、転機が訪れた。

 「兄と弟は教師になり、両親だけで農業をやっていたんですが、母親が交通事故で半年以上意識不明になり、兄弟のうち誰かが、父の世話をしなければならなくなったんです。私はいつか独立したかったこともあって、起業のつもりで農業を始めるために実家に戻りました。

 売上目標を1億円と掲げて父と2人で始めてみましたが、最初の年の売り上げはわずか400 万円でした。さすがに面食らいましたね。それまで兄弟3人とも大学を出て、贅沢こそしてないけれど、それなりの生活をしていましたから、実家の売り上げがまさかその程度だったとは思ってもいませんでした。次の年の売り上げも約700 万円。このままでは到底目標には届かないことがわかって、キャベツや水菜など様々な野菜を栽培していたものを、作業効率を上げるために、一年中栽培できる九条ねぎ一本に絞ることにしました。そのタイミングで、たまたま知り合いを通じて大阪の八百屋さんから声がかかって、いつも九条ねぎを流通させることが強みになって取引が決まりました。おかげで、その年に売り上げがいきなり1600 万円にまで伸びました。父は『これでうちも安泰や』と喜んでいましたね」

 しかし、山田さんの1億円の夢はまだ叶っていない。次に追い風となったのが、ラーメンブームだった。2000 年にカットねぎの流通を開始してラーメン店への出荷を始めると、2001年には売り上げが約6000 万円に達した。

 「最初、父は『農家が野菜を切って売るなんて、あかん』と、カットねぎに大反対でした。当時、お金は父が管理していましたから、経費をかけずになんとか中古のカット機械を買って、脱水機の代わりには洗濯機を使い、ビニールハウスで作った衛生室で作業することから始めました。ブームでラーメン店がどんどん増えて、カットねぎの売り上げがさらに伸びる見込みが確実となってきたところで、父の反対を押し切って借金をして、2002年に城南宮に工場を建て、会社も設立しました。その年の売り上げは9800 万でした」

 翌年、売り上げは当初の目標をはるかに上回る2億1000万円を達成した。その後も売り上げは順調に上昇を続けて現在に至る。2012 年には26年ぶりの厳冬に見舞われて苦境に立たされたが、その経験をもとに加工品の製造を強化することを覚えた。現在では、九条ねぎのドレッシングやオイルなどの販売も行っている。

 「2011 年に伏見に新本社と工場を建てた頃から、父は『ようわからんから、ええわ』と、何も言わなくなりました。それまでは毎日喧嘩をしていましたけど、今思えば、反対する父を納得させようとすることで、堅実な経営ができていたんですね」

 就農20年目を迎えた昨年、京都の伝統野菜の安全安心かつ安定的な生産と消費の拡大に成功したことが認められて、第8回京都創造者大賞・企業部門を受賞した。

 「京都で認められたというのが一番嬉しかったです」

 現在、「こと京都」では「独立支援研修制度」を設けており、20代を中心とする15名が参加している。山田さんが培ったノウハウは、確かに次世代へ繋がれようとしている。



木村の視点

 農業経営体の多角化のキーワードとして、第6次産業化という言葉がある。従来、第1次産業とされていた生産に終わることなく、食品加工(第2次産業)、流通・販売(第3次産業)までを複合化(掛け算化)させるという意味で使われているのだが、山田さんは正に農業の第6次産業化の旗手と言ってもいい存在である。この人の話には、しばしば数値目標が出てくるが、それは必達の目標というより、どういう成長イメージを持っているかということを明示するための数字ということなのだろうと思う。「今と同じことをやっていたら実現できないから、リスクを取って成長を目指す。そのためのアイデアを出そう!」という意思表示なのである。ねぎの香りのする社長室を出て、外へ出ると1台の緑色ジャガーが目に入った。「車もねぎ色なんですよ」、山田さんあなたって本当にねぎが好きなんですね!


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