2015年12月16日10時00分

にっぽん日和 広島 廿日市市


にっぽん日和 広島 廿日市市

古来より神の島として崇められ、日本三景のひとつでもある宮島。本土からフェリーで宮島へ渡れば、まるで海に浮かんでいるかのように見える嚴島神社が人々を迎えます。廿日市市には宮島をはじめ、牡蠣、けん玉、杓子など魅力が溢れています。
カメラ/渡邊春信 ライター/吉田彩乃 デザイン/北川原由貴 プロダクションマネージャー/池田大作 スペシャルサンクス/廿日市市





海の干満で姿を変える嚴島神社


 太古の昔、人々は宮島に霊気を感じ、島全体を御神体として崇めるようになったのが嚴島神社の由来と言われます。そこに神社が創建されたのは593年、推古天皇即位の年でした。平安時代に入り、それをさらに造営したのが平清盛。彼は安芸守として宮島と関わりができると、嚴島神社を平家一門が信仰するようになり、平安時代の建築に多く見られる寝殿造りを基礎として社殿を造り替えました。その後、2度の火災に見舞われましたが、全体的には造営当初の様式がほぼ忠実に再現されています。さらに、戦国武将の毛利氏によって増築されて現在に至ります。
 嚴島神社の最も魅力的、かつ神秘的な部分は、海の干満によって刻々と姿を変えていくところ。干潮時には社殿から大鳥居まで陸地をつたって歩いていくことができ、満潮時には、まるで神社全体が海の上に浮かぶかのような幻想的な風景になります。本土から宮島に向かうフェリーから眺めると、海の上で鳥居と本殿が見事に重なり、海の青と神社の赤い色のコントラストに心を奪われます。
 「島の形として、この場所は平地がなく、山の麓がすぐに海であるために、他に例を見ない海辺の神社となりました」と、嚴島神社・禰宜の福田道憲さんは解説します。
 嚴島神社はこの独特な景観などが評価されて1996年に世界文化遺産に登録されています。


切妻造りの入り口から続く回廊は、社殿を中心に108間(約275m)続いています。

宜の福田道憲さん。忙しい合間を縫って、丁寧に嚴島神社と原始林を持つ宮島の大自然の魅力を語ってくださいました。



国宝「廻廊」と毛利氏に由来する「釣灯籠」


満潮時には床板の部分まで海水が満ちてくる廻廊。床板の間には目透しという隙間が設けられており、下から押し上がってくる海水の圧力を弱め、海水や雨水を海へ流す役目を果たしています。幅4m、長さは約275m に及び、廻廊の柱と柱の間にひとつずつ釣灯籠が下げられています。釣灯籠は毛利氏が鋳鉄製のものを寄進されたことが始まりとされ、現在は大正時代に奉納された青銅製のものが飾られています。


天皇からの勅使が歩いた重要文化財「反橋」
橋の形が弓なりに反っていることからその名のついた「反橋」。転げ落ちてしまいそうなほど急ですが、重要な祭事のときに天皇からの勅使がこの橋を渡ったことから、「勅使橋」の別名でも呼ばれていました。現在の橋は、毛利元就・隆元親子によって再建されたものとされています。


学生時代は陸上競技で砲丸投げの選手だった廿日市市観光課の湯浅智美さん。



宮島のアイドル、ニホンジカ


宮島のあちこちで見かける、野生のニホンジカ。とてもおとなしく、人懐こいのが特徴です。約6000年前に瀬戸内海ができたときにはすでに生息していたと言われています。江戸時代の「宮島絵図」などにも、シカの絵が多く描かれています。


ぼた餅から転じた主婦のアイディア品
「お餅をぺったんぺったんとついて、塗ったタレがぽったぽったと落ちることから『ぺったらぽったら』と名付けたんです」と、笑いながら話す様子がチャーミングな店主の滝口みさきさん。牡蠣をのせたこの揚げ餅、10年ほど前にぼた餅を作ろうとしていたところ、餡子を塗る時間がなく慌てて焼肉のタレをつけたら美味しかったことから生まれたという。


ぺったらぽったら本舗
廿日市市宮島町北之町浜1183-2




けん玉発祥の地、廿日市
元は化粧用の熊野筆を製造していたイワタ木工。岩田知真さんは大学在学中にけん玉製造の研究を開始し、いまから10年ほど前に家業を継ぐ形でイワタ木工でけん玉を作り始めました。彼が開発した「夢元無双」シリーズは、緻密な計算と精巧な技術による精度の高い設計に加え、オブジェとしても映えるように玉の部分の色にこだわっているのが特徴。1万円を超える値段でありながら、国内外を問わずに熱狂的なファンから注文が殺到しています。


株式会社イワタ木工 廿日市市峠245-85

 
けん玉の原型となる玩具は、江戸時代、中国から長崎に伝えられました。フランスでは「ビルボケ」の名で19世紀の文献にもそのイラストが見られ、最古の資料としては16世紀の銅版画にも残されています。当時は、木の棒に、糸で結び付けられたボール型の木を刺すシンプルなデザインでした。1918年(大正7年)、これに、いわゆる「皿」の部分を加えて現在馴染み深いけん玉の形を考案したのが広島県呉市の江草濱次です。彼は、木工ろくろ技術と木製玩具の生産で名高い廿日市市にこれの製造を依頼。これが、廿日市市がけん玉発祥の地となったルーツです。
 廿日市市の眞野勝弘市長によると「一時期はけん玉が下火になってしまいましたが、近年、また注目を集め始め」たそうで、2014年と2015年には廿日市市でけん玉ワールドカップを開催。その功労者が、株式会社イワタ木工の岩田知真さんと、日本けん玉協会西広島支部長であり、けん玉ショップ&サロン「夢」を経営する砂原宏幸さんです。岩田さんは作り手として、砂原さんはけん玉の指導者としてお互いを刺激しあい、また、けん玉の普及に貢献しています。

「岩田知真君のおかげでいまの私がいる」と語るのは、日本けん玉協会西広島支部長の砂原宏幸さん。岩田さんがけん玉作りを通して廿日市市の伝統を継承する姿に励まされた砂原さんは、小学校の教員の職を辞し、けん玉の指導者に。2014年にはけん玉ショップを開店。いまではそこに子どもやけん玉名人たちが集まり、特訓に励んでいます。


kendama shop & salon 夢。
廿日市市廿日市2丁目3-10





木の温かみを感じる伝統工芸「宮島杓子」


 宮島の杓子の出荷量は全国1位を誇り、全体の50%を占めています。宮島杓子の始まりは、江戸時代の寛政年間(1800年頃)のこと。宮島の時寺という寺の僧侶・誓真が弁財天の夢を見て、その手の中にあった琵琶の形の美しさを杓子にうつし、それを作ることを島の人に教えたことが始まりとされています。
 土産用の宮島杓子の3分の1を生産している倉本杓子工場は、創業約80年。代表の倉本さん御夫婦と先代の御夫婦に加え、2人の職人の合計6人で営んでいます。近年、プラスチック杓子が普及する一方、上質な素材の高級杓子の需要も高まってきています。「主にブナや山桜で作っていましたが、最近、東京のお客さまからの特注品で、檜でも作るようになりました」と、代表の倉本充明さん。お母さまの佳子さんも「いまの一番のお気に入りは檜。手によく馴染むし、肌触りがいいですね」とおすすめしています。

(上)先代の政行さん。電動ノコギリを使い、木の板を杓子の形に切り取る作業中です。片方の目が不自由になってきたそうですが、60年以上培ってきた手の感覚を基にした見事な手さばきは、まさに職人技。(右)最後の仕上げとして、杓子の表面を削る作業中の充明さん。


倉本杓子工場
廿日市市深江1丁目1-18




伝統工芸である宮島細工を後世に遺すとともに、杓子発祥の地のシンボルとして製作された世界一の大杓子。材料には、樹齢270年、長さ13mのケヤキが使われました。製作には2年10ヵ月の歳月がかけられ、その大きさは長さ7.7m、重さ2.5tにもなります。1996年に嚴島神社が世界遺産に登録されたことと、宮島本通り商店街が宮島表参道商店街に改名した記念として、現在の場所に展示されました。
廿日市市宮島町北之町





味は濃厚、見た目はふっくら、宮島海域の牡蠣

(左)若手生産者の竹内剛さん。通常牡蠣の養殖には2〜3年かかるところ、「若い牡蠣の方が新鮮で、身もはじけるように美味しい」と、刺激を与えてどんどん太らせた牡蠣を養殖期間1年で出荷するのが特徴。(右)竹内さんら若手の生産者が結成した「若葉会」のチームTシャツ。


宮島の牡蠣は、ふっくらと身太りがいいことが特徴。広島県で出荷される牡蠣の重さは平均12gとされていますが、宮島周辺海域で獲れる牡蠣は平均20g。沖の養殖場(写真左)では、10mのリードを使って800kgもの牡蠣が水揚げされます。






新幹線だと東京~広島間は3時間58分、当然1時間25分で行けるJALを選択して取材地に向かった。嚴島神社・牡蠣・杓子・けん玉など豊富なコンテンツはよく知られたところだが、思わぬ拾い物があった。「ぺったらぽったら」なる妙な名前の餅である。女主人の「某アイドルが4回も来たんだよ」という巧みなプレゼンにつられて思わず口にしたのだが、その美味しかったこと!嚴島神社の鳥居をバックにカメラ目線で応えてくれた鹿くんと共に、スペシャルサンクスの言葉を捧げたい。

木村政雄






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