2016年02月24日10時00分

男たちよ! チャーミングなジジイになろう 毒蝮三太夫

木村政雄編集長スペシャルインタビュー

毒蝮三太夫

男たちよ!チャーミングなジジイになろう



浅草寺の雷門の前で、その人を待っていた。と、そのとき、白髪の人だかりが動いた――。
人呼んで〝ジジイ・ババアのアイドル〟、毒蝮三太夫さんの登場である。
「まだ生きてるのか、このババア。」「しっかりせえよ、このジジイ。」
握手攻めに応じながらも、お約束の、ジジイ、ババアを連発する。
そのたびに笑顔の花が咲きこぼれ、パッと広がる。人を元気にするその〝魔法〟、教えてください!







毒蝮 三太夫(どくまむし・さんだゆう)1936年3月31日、大阪生まれの東京育ち。本名:石井伊吉(いしい・いよし)。タレント・俳優・ラジオパーソナリティ、聖徳大学客員教授。12歳のとき、舞台『鐘の鳴る丘』で芸能界デビューし、高校時代は東宝、大映の青春映画に出演。日大芸術学部映画学科卒業後、テレビ『ウルトラマン』のアラシ隊員役などで一躍お茶の間の人気者に。1968年、日本テレビ『笑点』出演中に、落語家・立川談志の助言で「毒蝮三太夫」に改名。翌年10月からTBSラジオ『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』でパーソナリティを務める。Eテレ『ハートネットTV』の「介護百人一首」で司会を担当するなど幅広く活躍中。1990年、浅草芸能大賞奨励賞受賞。1993年、日本老年行動科学会「特別顧問」就任。2005年、日本雑学大賞受賞。通称「まむちゃん」「マムシさん」。共著に『シルバー川柳特別編 ジジィ川柳』など。


木村:いやあ、浅草寺の雷門前からここまで、浅草のまちを一〇分少々、一緒に歩いてきましたが、マムシさんの人気ぶりには改めて驚かされました。ジジイ、ババアと呼びかけているのに、笑顔で握手を求められるなんて、マムシさん以外には、有り得ませんよ。TBSラジオの『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』が四七年も続いている理由が、よく分かりました。ところで、マムシさんは私より、ちょうど一〇歳上なんですよね。

毒蝮:え、俺のほうが上なの? 俺、昭和三一年生まれだけど、木村さんは何年生まれよ?(笑)

木村:あははは。マムシさんのジョークにはかないませんね。『5L(ファイブエル)』は中高年世代がターゲットの雑誌で、今回は一〇年先にこういう素敵な大先輩がいらっしゃるということで、元気でがんばろう、希望に繋げようというわけです。

毒蝮:そういう企画で呼んでくださったのなら光栄だね。何でも聞いてください。

木村:はい。私は、その歯切れのいい毒舌トークから、マムシさんはチャキチャキの江戸っ子だと思っていたんですが、お生まれになったのは大阪だそうですね。

毒蝮:そう。木村さんも大阪生まれ?

木村:いえ、私は京都です。マムシさんは、ご両親が関東大震災で被災され、大阪に避難されていた時にお生まれになったんですね。

毒蝮:説明するのが面倒でこれまで黙っていたんだけど、大正一二(一九二三)年の関東大震災で、東京はめちゃくちゃになった。親父は横浜・戸塚の農家のせがれで、一〇人兄弟の五番目くらい。東京で大工をやっていたんです。お袋は芝で生まれて神田で育った江戸っ子で、震災当時すでに神田の製本屋と結婚して長男がいました。震災後、親父は東京で仕事がなくなり大阪へ。お袋も一家で大阪へ避難した。住所は大阪市阿倍野区阪南町。うろ覚えなんだけど、ご存じですか?

木村:はい、大阪でも南の方になりますね。

毒蝮:お袋の一家は大正一二年から昭和一一(一九三六)年までの十数年、そこの長屋に住んでいたらしい。大正一四年には下の息子も生まれましたが、父親は乳飲み子を置いて亡くなった。その後、俺の親父とお袋が出会って昭和一一年、俺が生まれたの。それから間もなく一家で東京へ戻った。だから父親違いの二人の兄貴は、大阪弁をしゃべっていましたよ。

木村:お兄さんたちは東京に帰って困られたでしょうね。まだ、いまほど大阪弁が知られていませんから。

毒蝮:喧嘩をすると「あほんだらー」とか、七輪のことを「かんてき」とか言ってたね。親父は大工だから、八丁堀の大工や職人仲間にいろんなことを教わるわけ。口数は少ないけど、面白いことをよく言っていたね。ある時、親父が作った棚が落ちた。その家主が文句を言いに来たら、親父は「何か乗せたんだろう」って(笑)。それに江戸っ子はカネが無い。今日、うなぎを食いてえと言っても、食うためには何か面白いことを言わなきゃいけないんです(笑)

木村:面白いやつじゃないと、職人仲間に入れてもらえないんですね。

毒蝮:そうそう。面白いやつ、大阪にもいるでしょう。

木村:いますね。愛嬌だけで持っている芸人さんもいますよ(笑)

毒蝮:あははは。あいつ、芸はダメだけど、一緒に居ると場があったまるとか、陽気でいいよとか。そういう普段の会話の面白さを、俺は大工の親父から教わったね。

木村:なるほど。マムシさんの不思議な温かみのある毒舌トークのルーツは、お父さんだったんですね。

毒蝮:いま、俺がやっていることを「話芸」と言う人もいるけど、俺は来た球を打ち返しているだけ。相手に合わせてしゃべっているだけでね。落語でも漫才でもコントでもない。台本があるわけじゃないんだから、ふつうの会話。だけど立川談志(落語家・故人)は「お前の場合、親父のヨイショ精神が身に付いちゃってるんだよ」って褒めてくれていました。

木村:あの辛口で有名な談志さんが、そこまで石井伊吉青年に肩入れされたのが、すごいと思いますね。俳優を志しておられたマムシさんに「寄席の人間になれ」と誘い続けられて……。

毒蝮:志していたんじゃなくて実際に俺は一二歳から俳優をやっていたからね。舞台『鐘の鳴る丘』のオーディションを受けて合格。児童劇団に入って、中学、高校の頃は青春映画にも色々出ましたよ。

木村:しかも日大芸術学部の映画学科に入られて、劇団を創り、演出家を目指しておられた。

毒蝮:そうそう。新劇でシェークスピアとか、やりたかったんだよね。





門から日本最古の商店街といわれる「仲見世」を抜け、歩くこと数分。浅草公会堂玄関前の石畳は「スターの広場」として、大衆芸能に貢献したスターの手形を刻印したプレートが並ぶ。もちろん、毒蝮さんの手形も。





人生のターニングポイントは、立川談志と『笑点』との出会い


渥美清や東八郎らコメディ俳優を輩出した「浅草フランス座演芸場 東洋館」や「浅草演芸ホール」を突撃訪問した毒蝮さんは、まるで“わが家”に帰ったような笑顔になった。


木村:ところで、中学校の卒業式で、卒業生を代表して落語を演じられたって本当ですか。

毒蝮:ホントだよ。五代目古今亭志ん生の「替り目」っていう落語をやったね。

木村:一四歳で、夫婦の情愛を描いた「替り目」を演じるのもすごいですが、そんな機会を与えた学校も懐が深いですね。

毒蝮:俺、子役から芸能界に入っているし、人を笑わせるのが好きだし、学校では人気者だったんです。生徒会の議長をやったり、学芸会といえば主役。落語が大好きで、当時住んでいた浅草竜泉寺から都電で上野の「鈴本演芸場」へ行くわけ。あの頃の鈴本演芸場は昼・夜通しで観られた。朝一一時頃に入って夜九時頃まで落語を聴いて、帰りは都電に乗らないで一時間ぐらい歩きながら、三つくらいの演目を覚えてしまう。まだ、テレビは無いから、NHKラジオの『放送演芸会』の時間になると、じっと耳をすまして聴いたもんです。

木村:そこまで落語が好きだと、ふつうは落語家を目指すのでは?

毒蝮:あ、そうか……。でも、俺は落語家になろうとは思わなかったね。

木村:高校は都立大森高校で、優秀じゃないですか。

毒蝮:浅草から品川に引っ越したので、学区でいえば東大進学で有名な日比谷高校とか新宿高校だけど、そんなハイレベルじゃないから都立大森高校に進んだ。その頃劇団に入って、当時の銀幕の大スター、若尾文子さんとか根上淳さんの映画に高校生役で出演。昭和二六年、二七年頃といえば、ポスターでも、女の人の足がちょっとでも見えたらダメみたいな時代でねぇ……。

木村:そんな役者として着々と活躍を始めていたマムシさんと、天才落語家の呼び声が高かった立川談志さんが、どういうきっかけで出会われたんですか?

毒蝮:知り合ったのは二一歳の頃。新劇にあこがれて俺も劇団を創っていたし、談志は俺たちが出ていた劇場で落語会をやっていた。それでお互いを知る役者がいて、仲を取り持ってくれたんです。




「ウルトラマン」の科学特捜隊のアラシ隊員を演じた毒蝮さん。

木村:マムシさんはその後、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』で活躍されるわけですが、談志さんに『笑点』の座布団運びを頼まれたわけでしょう。そのときの口説き文句は、何だったんですか。子どもたちのアイドルとしては、悩まれたのでは?

毒蝮:そりゃ、悩まないわけがないよ。談志が俺を演芸の世界に引きずり込むまでに、七年かかっているんだから。銀座のバーで「お前は所詮、二枚目俳優の仲代達矢さんにはなれねえんだから」ってね(笑)。「怪獣ブームだって、すぐに去っちまう、いまのままでは、お前のよさが出ないんだ。お前は普段の話がおもしれえんだから」と、しきりに誘ってきた。どういう意味だって聞くと「お前を寄席に連れて行くと、文楽師匠も、小さん師匠も、志ん生師匠も、お前のことを嫌がらねえ。逆に、今日は連れてこねえのかって気にかけている。閉鎖的な寄席の中で、そこがすごいんだよ」って俺のことをリトマス試験紙みたいに言う。 まだ、あいつが柳家小ゑんの時代ですよ。

木村:談志さんは「売れなかったら、俺が収入は保障する」とまで言われたんですよね。すごいプロデューサーだと思いますね。

毒蝮:そう。「お前、『ウルトラマン』で、どれだけもらっているのか」って聞いてきたので、「一五万円くらいかな」と答えると、「その金額以上を保障するから、やってくれ」と。

木村:それにしても、どうして、「毒蝮三太夫」という、おどろおどろしい名前になったんですか?

毒蝮:結局、座布団運びを引き受けたんだけど、その頃は俺も『ウルトラマン』のアラシ隊員で知られていて、「怪獣退治のアラシ隊員が、なぜ、座布団運びをしているんだ」と子どもたちからTBSに苦情がくるんです。それで、仮の名前を付けることになった。談志が「怪獣にも負けないような名前で、蝮ってのはどうだ?」と言うと、圓楽さんが「ただの蝮じゃ面白くねえ、毒を付けろ」って。「三太夫」は、『談志専科』というテレビ番組があって、談志がお殿様で、田中三太夫という家老を俺がやっていた。「おい、三太夫、世間はどうなっているか?」「へい、浦賀の沖に黒船が来ました」「黒船ごときで驚くものか。あとは?」「(月の家)圓鏡が落語の稽古をしました」「そりゃ、驚いた」というような風刺を効かせたギャグ(笑)。それが『笑点』のプロデューサーなどの目に留まって「毒蝮三太夫」になった。最初は「石井伊吉こと毒蝮三太夫」だったんだけど、番組の中で改名披露までやって、この芸名が定着したんです。




座布団運びの本気バトルが、仕事のベースになっている



木村:でも無理やり「石井伊吉」を「毒蝮三太夫」にした談志さんが、突然、選挙に出て、『笑点』を降板されたんですよね。いきなり、はしごを外されたようなものじゃないですか?

毒蝮:談志はわがままでね。だから俺も、あれだけ悩んで、やっと引き受けた座布団運びを一年ぐらいしかやってないんだよ。

木村:談志さんが降板した後も、慰留されたんじゃないんですか。

毒蝮:されましたよ。談志は辞めるけど残ってくれって。「毒蝮」は日本テレビで付けた名前だから、よそじゃ使ってくれないよ、とか言われて。だけど、そう言われると江戸っ子魂に火がついて、「この名前で世間に通用するようになってやろうじゃないか、それが談志へのお返しだ」と思いましたね。

木村:談志さんへの義理を通されたんですね。だけど仕事はなくなったわけでしょ。

毒蝮:『笑点』の仕事はなくなりましたが、TBSからラジオ番組のパーソナリティのオファーがあったんです。それが四七年続いている『ミュージックプレゼント』。まちに繰り出して、お年寄りや商店・銭湯などを訪ね、生放送する番組で、いま考えると、あの座布団運びが、俺の仕事のベースになっているんだなと。(三遊亭)圓楽さんがいた、(桂)歌丸さんがいた、(林家)木久扇さんがいた。この手ごわい連中と、「落語家じゃない」俺が本気でバトルをやった。その経験が役に立っているんです。もし、俺が落語家になっていたら、歌丸さんだって「兄さん」と呼ばなきゃいけないし、談志も「師匠」でしょ。実際は「おい、談志!」と呼び捨てだもん。




木村:ホンネのバトルだからこそ、人の心を打つんですね。そのラジオ番組が、こんなに長く続くと思われていましたか。

毒蝮:思いませんよ。だけど、この番組のおかげで、俺がお年寄りのオーソリティになっちゃった。いま、NHKの介護の番組や、大学の教授もやれているのは、このラジオ番組があったからこそ。そして、親父が大工だったり、お袋が、たぬきババアだったり(笑)、談志という名伯楽がいて、俺をつくってくれたんだなと感謝している。この四七年を振り返ると「石井伊吉」が、「毒蝮三太夫」という役を演じている気がするね。そして、はっきり言えることは、石井伊吉で役者を続けていたら、この年まで仕事は続かなかったってことだ。

木村:最近は、ドラマも映画も本数が減っていますからね。でも、マムシさんの活動は幅広くて、肩書きを付けるとき、悩みます。


毒蝮:そう、思いますか? 俺も悩むね。俺って何だろうって。マルチの時代っていうか、談志という名プロデューサーに乗せられちゃったというのかな。

木村:だけど、この名前、奥さまには言えなかったでしょう。

毒蝮:結婚は昭和三七年で、まだ「毒蝮」になってないときだね。彼女はデパートに勤めていて、三越劇場で公演したときに出会ったんです。結婚式では談志が司会をしてくれました。

木村:小林桂樹さん(俳優・故人)の仲人というのはどういうご縁で?

毒蝮:小林さんは日大芸術学部の先輩でもあり、東宝の映画にも一緒に出たし、ラジオでもご一緒していたんです。いい酒を飲む方で、俺の酒の師匠は小林さんだよ。改名のときには、小林さんにも相談しました。すると「気楽に考えたらいいんじゃないの」って背中を押してくれた。「〝毒蝮〟がダメだったら、〝長谷川一夫〟って手もあるよ」と笑って。後年、談志に言われたのは「お前、よくシャレで付けた名前で、ここまでやって来たなあ……」(笑)。




男たちよ、人生八〇年時代をみずみずしく、柔軟に生き抜こう



木村:こうしてみると一〇代の女子大生から、八〇代、九〇代、一〇〇歳のお年寄りまで、これだけターゲットの年齢層が幅広いタレントさんもいないでしょうね。

毒蝮:いまどきの学生さんは、落語を「楽語」なんて書くんだからね。朝のラジオでも、四七年前は日露戦争の話ができた。いまは第二次世界大戦で、空襲で逃げ惑ったことも分かっていない若者が多い。だから世代間のジョイント役というのかな。そんな役割を感じている。木村さんみたいな本職から見て、何なんだろうね。俺は?

木村:マムシさんの場合、「タレント」というと、少し軽い感じがしますよね。「伝道師」じゃないですか?

毒蝮:あ、昭和の伝道師ね。いいねえ。昭和は戦争があったから、この辺だって空襲で一〇万人も亡くなっている。俺は焼け野原を実際にこの目で見ているんだから、それを次の世代に伝えていくのも、仕事のような気がする。この間、NHKの加賀美幸子アナウンサーと対談したら、俺の笑いを分析してくれたんです。彼女いわく、自分は真面目に見えるけど、実は古典に通じていて、徒然草や新古今和歌集がそらで言える。その語りが面白くてね。彼女は真面目に見えるけど面白い「真面目おもしろ」。一方の俺は、面白くていい加減なやつに見えるけど、本当は真面目。だから「おもしろ真面目」って言うの。分かります?

木村:「おもしろ真面目」、よく分かりますよ。だから、お年寄りが、ジジイ、ババアと呼ばれても怒らないんですよ。むしろ喜んでいる。マムシさんは毒舌でも、全然、偉ぶっていない。人を大切にされているのが分かります。中には大学教授になって、偉そうにする芸人さんもいますが、どうかなと思いますよ。だって人間、偉そうにする方がラクですから。いま、うかがっていて、マムシさんは役者さんとしても魅力的になられたなと感心しました。これから、いい役がいっぱい来ますよ。

毒蝮:そういえば最近、役者のオファーが多いんですよ。だからチャーミングなジジイになりたいと思っています。トム・クルーズみたいなね(笑)。

木村:マムシさんは我々の希望の星ですから、どんな「ジジイ」になられるのか、楽しみにしています。最後に読者に熱いメッセージを。

毒蝮:昔は人生五〇年だったから、思い悩むことは少なかったんです。でも、いまは人生八〇年で、定年後に二〇年もある。この二〇年をどう生きるか、これが悩みのタネ。とくに男が大変だよ。女は友達が多いし、よく食べ、よく笑い、よく出掛けるからそんなに心配はしない。男は閉じこもって、認知症やうつになってしまう。それじゃダメだよ。出掛けて、しゃべって、笑って、人付き合いをすること。言わぬが花なんて時代じゃないんだ。一〇四歳で現役医師の日野原重明先生にも言われたんだけど、年を取ったら、まず素直になること。みずみずしく、柔軟でいることが大事だと。若いときは無鉄砲でいい。年を取ったら素直にならないと嫌われるよ。「経済の不安」「健康の不安」「孤独の不安」この三つを高齢者の「3K」と言うんだ。もう俺も立派なジジイだけど、この3Kを自分のそばに置かないようにして、みずみずしく、生きていこうよ!

木村:まさに「生涯青旬」ですね。私も一〇年後、いまのマムシさんをイメージしながら、しっかりと生きることにします。本日は、ありがとうございました。





対談後記
せっかく毒蝮さんに出ていただくのだからと、場所を浅草に設定した。やはり少年期を過ごされた地元とあって、あちこちに馴染みの方々が。対談場所の「どじょう屋」さんに辿り着くまで、自在に歩く蝮さんの後を追うのが大変、とても傘寿を前にした人とは思えないほどの健脚である。対談がはじまってからも、些か緊張気味だった私の心を見透かすかのように、フレンドリーにお話をいただき、ただただ感謝! 初物の「どじょう鍋」のおかげもあってか、「あったかーい」気持ちで無事に終えることができた。だがそれにしても、10年後はたして今の蝮さんのように元気でいられるのだろうか?(女房には内緒だけれど)やはり素直にならなきゃいけないんだろうな、難しいんだこれが。


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