2016年08月10日10時00分

健さんとの出会いが、役者への道を切り拓いてくれた。 石倉三郎 俳優

木村政雄編集長スペシャルインタビュー

石倉三郎 俳優


健さんとの出会いが、役者への道を切り拓いてくれた。



「サブちゃん、潮が満ちてきたようだね」
今年、古希を迎える俳優・石倉三郎は、高倉健さんに掛けられたその言葉を忘れない――。
貧しかった少年時代、母親が勤める映画館で、来る日も来る日も、喜劇を観ていた。
スクリーンの中で跳びはねる三木のり平や植木等に、唯一、希望の光を見ていたのだろう。
役者という運命の海に漕ぎ出して五〇年。豊かな満ち潮に、石倉の渋い演技が光っている。





石倉三郎(いしくら・さぶろう)
 1946年、香川県小豆島町生まれ。俳優、コメディアン、タレント。本名=石原三郎。芸名は俳優・高倉健から1字をもらって「石倉」に。中学2年生のとき大阪市鶴見区に転居。卒業後、工場勤務などを経て、俳優に憧れ上京。1967年、高倉健の紹介で、東映東京撮影所の大部屋俳優になり、任侠映画などの端役を務める。1972年、東映を退社。舞台に転向し、1980年、故レオナルド熊と「コント・レオナルド」を結成、折からの漫才ブームに乗り、一世を風靡する。1983年ゴールデン・アロー賞芸能賞、1984年花王名人賞を受賞。1985年、コント・レオナルドを解散し、俳優に復帰。映画『四十七人の刺客』に出演して以来、市川崑監督の作品に出演するなど名脇役として活躍。近年は渋い中年男性役で多数の映画、ドラマ、舞台に出演している。2016年、犬童一利監督作品の映画『つむぐもの』で初の主演。著書に『粋に生きるヒント』(ロングセラーズ)など。


木村:石倉さんと同い年なんですよ。五月生まれで、私の方が一足お先に七〇の大台に乗りました。

石倉:こっちは一二月生まれですから、もうしばらく六〇代です。しかし、古希ですねぇ。

木村:杜甫のいう「古来稀なり」という年になりましたね(笑)。石倉さんとは生まれ育った時代が同じということで、以前から親しみを感じてきたんですが、確か、最初にお会いしたのは、関西テレビ制作の『花王名人劇場』でしたね。

石倉:一九八〇年代前半の漫才ブームの頃、木村さんが吉本興業の東京進出の先頭に立っておられた熱い時代でしたね。

木村:石倉さんこそ「コント・レオナルド」として大ブレークされて、まさに、漫才ブームの一翼を担っておられました。その後、俳優に復帰され、今年で芸能生活五〇周年になられたわけですね。主演された映画『つむぐもの』が話題を呼んでいます。ここに至るまでには大変なご苦労がおありだったことと思いますが、その辺りからおうかがいしましょうか。

石倉:僕の両親は、もともと大阪で仕出し弁当屋をやっていたんですが、昭和二〇年の大阪大空襲で焼け出され、小豆島に縁故疎開したんです。そこで僕が生まれ、中学一年まで暮らしていました。 終戦間もない時代で、日本中が貧しかったといいますが、わが家の貧しさは別格でしたね。

木村:具体的には、どのような少年時代だったんですか?

石倉:小学校も、よくぞ卒業させてくれたなと思うくらい、学級費とか給食費とか払えなかったんです。当時は子どもの気持ちなんてお構いなしに、お金を持ってこない子どもを、先生が皆の前で出席簿順に名指しする。それが恥ずかしくて嫌で……月に一回、子供心に切ない思いをしていました。唯一、楽しかったのは映画で、年の離れた長兄が映画館で映写技師をやっていて、お袋が、そこのチケット売り場で働いていたので、毎日のようにタダで映画を観て育ちました(笑)。

木村:日本映画が輝いていた時代ですよね。

石倉:ま、田舎の映画館ですから、日替わりの三本立て。小学校の六年生ぐらいだったか、そろそろ生意気になってくる頃、東宝の「社長シリーズ」が大ヒットして、三木のり平さんに、もう、夢中になったんです。

木村:社長シリーズというと、森繁久彌さん主演の喜劇映画シリーズですね。高度成長期の企業を舞台に、浮気者の森繁社長に、三木のり平さん演じる宴会好きの営業部長らが絡んで巻き起こす、てんやわんやのサラリーマン喜劇でした。

石倉:そうそう。うちは貧乏だし、当然、上の学校に行く金もないし。で、将来は漠然と、のり平さんのような俳優になりたいなと思ったんです。

木村:なるほど。小学校時代から役者を志しておられたんですね。

石倉:というか、直感ですね。もう一つ、忘れられない思い出が小学校の卒業式の謝恩会。お世話になった先生方や親に、卒業生が舞台で何か演じるという企画があって、クラスでも一、二番の秀才が「サブちゃん、俺と一緒にマジックショーをやろう」と誘ってきたんです。「人前で何かやる? 冗談じゃない」と断ったんですが「サブちゃんは面白いから」って無理やり引っ張り出されたところ、めちゃくちゃ受けましてね。先生や親たちが、僕を見て大笑いしている。貧乏で、いつも小さくなっている自分でも、平等に笑ってくれるんやと、うれしかったですねぇ。

 中学二年に上がるとき、大阪に引っ越したんですが、大阪でも、学級費も給食費も払えない。小豆島の学校と同じように、出席簿順に名前が呼ばれる、嫌だなと思ったそのとき、僕の前の出席番号のアズマって子が「先生、義務教育で金取るって何やねん。ワシは貧乏やねんからな」と堂々とツッコミを入れた。すると教室中が大笑い。貧乏がギャグになるのかと、ウワーッと鳥肌が立ちました。僕はエエ所へ来たなあ。さすが大阪やなあと、意識がいっぺんに変わりました(笑)。

木村:アハハハ。大阪の笑いやギャグが、少年の抱いていたコンプレックスを吹き飛ばしたんですね。よかった、本当にいい所へ来ましたね。





乏、中卒、小柄。マイナスを乗り越え
役者になる覚悟を決めた専務の一言



木村:でも中学三年になると、進路の問題に突き当たるでしょう。

石倉:わが家は貧乏ですから当然、僕も就職組だったんですが、中卒で、どうやって食べていったらいいのか分からず悶々としました。手品師かコメディアンか、就職するならネクタイを締める営業マンになりたかったんです。そんなグズグズしている僕を見て次兄がシビレを切らして、自分が勤めているポンプ会社に頼んで、工場に入れてくれたんです。僕の唯一の取柄は真面目さだと思うんですが、無遅刻無欠勤で、工場勤めも三年目という、ある日、専務に呼ばれ「名古屋の営業所で営業マンを一人欲しがっとる、営業マンで頑張ってみないか?」と言われたんです。びっくりして「僕は中卒で頭も悪い、そんな自分に営業の仕事ができますか?」と聞いたら専務は「学歴なんか関係ない。要はやる気があるかないかや。君は普段から真面目で根性がある。それに宴会などで面白いことをやって周囲を楽しませているじゃないか」と言ってくれたんです。「僕、そういう素質、ありますか?」「あるよ!」。その一言で「役者になる」と決めたんです。

木村:せっかく憧れの営業マンになれるというのに、会社を辞めて役者になろうと思ったんですか?

石倉:会社の偉い人が冷静な目で僕の素質を認めてくれたので、逆にそれなら夢に賭けてみようと決心したんです。その場は「一晩考えます」と言って帰りましたが、腹は決まっていました。兄貴は、弟の名古屋営業所への大抜擢を知って、帰宅後一番に「よかったな!」と喜んでくれたんですが、僕が「会社を辞めて、役者になる」と宣言したものだから、「縁を切る」とまで言われてしまいました。一方で、親父は若い頃に鈴木傳明という映画スターの弟子になると言って、東京に出奔した人ですから、「ま、頑張れよ」なんて能天気に励ましてくれました。血は争えないですねぇ(笑)。最終的には兄貴が「お袋に仕送りをする」ことを条件に、許してくれたんで、それでしばらくの間、大阪で働いてお金を貯めて東京に行くことになったんです。

木村:小学生の頃から新聞配達をしたり、本当によく働きましたね。

石倉:中学校では、朝刊配って、牛乳配って、夕刊配って、米屋のバイトですから四つを掛け持ちしていました。このときも、喫茶店、バー、消火器製造会社と、いろいろやって成人式を済ませたところで、ある劇団の二次試験に合わせて上京したんです。

木村:夢の実現に向かって、意気揚々と東京の地を踏んだわけですね!

石倉:ところが、その劇団の面接に行くと「バイトは一切認めない」と言われたんです。がっかりでした。憧れの三木のり平先生の家の前にも何度も立ったんですが、どうしても玄関チャイムを押せませんでした。もし弟子入りが許されても、バイトは、まず無理でしょう。僕の場合、どうしてもお袋に仕送りができなければダメだったんです。

木村:予定が狂って、さぞかし不安だったでしょうね?

石倉:仕事が見つかるまでの一カ月は大変でしたが、何とか新宿の最中屋さんに拾ってもらうことができて、そこに住み込みで働くことができました。最中のあんこを練っていると、パートのおばちゃんたちが「兄ちゃん、俳優になるんだって? だったら、こんな所で最中を作っていたって仕方ない。東京には青山って、スターがいっぱい歩いている所があるから」と教えてくれた。そこで、青山の深夜スーパーのレジ打ちになり、休憩時間に近所の喫茶VANでコーヒーを啜るのが日課に。スーパーには石原裕次郎さんが来るわ、VANには高倉健さんが来るわ……おばちゃんたちの話は本当だったんです。

木村:芸名に、一字をもらったという、運命の出会いですね。

石倉:はい。VANでいつものようにコーヒーを啜っていると、健さんが毎日のようにいらっしゃる。そのうち名前を覚えてくださり、あの声で「よう、サブちゃん、こんばんは」って声を掛けていただいたんです。もう、頭がシビレて、しどろもどろに。そしてある日、「サブちゃん、俳優目指してるんだって? ここのママに聞いたけど。じゃあ、東映においでよ。僕が紹介してあげるよ」。こうして東映東京撮影所の大部屋俳優になることができたんです。二〇歳の終わり頃でしたね。名前の一字というのは、僕の本名は石原。撮影所に同姓の人がいたのでややこしいと言われ、健さんの「倉」をいただいて、石原三郎から石倉三郎になったんです。

木村:大部屋俳優って大変な世界でしょう。いろいろご苦労があったんじゃないですか?

石倉:一日でも先に入ったほうが先輩で、下の者が雑用をするんです。衣装も、ワイシャツも靴下も、前の人が着たもの。ワイシャツは汗で湿っているし、靴下は臭い。仕事はいわゆる「仕出し」(エキストラ)で通行人とか店の客とかばっかりでした。でも『網走番外地』のロケに参加できた時にはうれしくて、みんなに手紙を書いて知らせました。

木村:当時の出演料は、いくらくらいだったんですか。

石倉:五〇〇〇円から七〇〇〇円くらい。あの当時は、一カ月に東京と京都の撮影所で二本ずつ映画を作っていましたから、けっこうな実入りがありました。

木村:大阪を出て都合十年間、仕送りを続けられたそうですが、仕送りをするには安定収入があった方がいいですよね。

石倉:だけど、大部屋俳優を長くやっていると、大部屋の垢がつくというか、セリフもないし、クズのような扱いで仕事に誇りが持てない。理不尽なイジメが渦巻いている……。ついに僕は大部屋の事務担当者を殴ってしまい、その結果、仕事を干されて四年で辞めることにしたんです。紹介していただいた健さんに言うのが本当に辛かったですね。






運に身を任せて、役者の仕事に還る
「サブちゃん、潮が満ちてきたな……」



木村:昔から喧嘩っ早かったんですか?

石倉:仏の顔も五度か六度くらいは我慢できるんです。もともと人見知りの気の弱い人間ですから。でも七度目は無理。切れてしまうんです。

木村:東映を辞めて、仕事はどうされたんですか?

石倉:商業演劇の俳優を四年ほどやりました。端役ですけどね。その後、一年ほど、芸能界から離れていたんですが、歌手の坂本九さんから、専属の司会を頼まれて、二年間ほど活動を共にしました。九さんからは、マネージャーになってほしいとも言われたんですが、僕はやっぱり役者になりたいということでお断りしたんです。

木村:その次が、大ブレークした、コントですね。そうやって次々に声が掛かるのは、やっぱり石倉さんの持っていらっしゃる人徳なんでしょうね。

石倉:有り難いですね。母親が「人の話にはのってみるもの」とよく言っていましたが、本当です。コントの世界に入って、ビートたけしさんと飲むようになったり、仲間がまたぐんと増えました。レオナルド熊さんから相方を頼まれて始めたのが「コント・レオナルド」。熊さんによれば、二〇〇人目の相方だとか。あの舞台で、僕はお客に「受ける」喜び、本当のプロとしての感動を、初めて味わうことができました。

木村:コント・レオナルドは、本当に面白かったですよ。

石倉:ネタをつくるのも必死で、真剣勝負でしたからね。

木村:当然、収入も上がってきたでしょう。

石倉:上がりました。ワンステージ一二〇万円。前年の年収が四〇万ですから、お金をどうやって使ったらいいか分からなくて、困りましたよ。

木村:しかし、残念ながら人気絶頂のときに解散されました。

石倉:熊さんは非常に才能のある人でした。
が、例えば、コント・レオナルドの持ちネタを、勝手に自分のお弟子さんと、テレビで演じたりするんです。事務所の社長が何度意見しても同じことがあって、別れようということになりました。

木村:結局、熊さんとは何年一緒にやられたんですか?

石倉:コンビを組んでから四年、売れてからは二年でした。

木村:あのエンタツ・アチャコの名コンビでも三年ですから、いい頃合いだったんじゃないですか。お笑いで売れているときも、将来は役者で行こうという気持ちはあったんですか。

石倉:ありました。やすしきよし、オール阪神・巨人、ツービート……漫才で人気者になった人たちは、根っからのお笑いで培った土壌がありますが、僕には、そういう土壌は無いんです。僕は映画が大好きで、映画にどっぷり浸かったところから来ているんです。これは決定的に違うなと思いました。

木村:役者としての活動を再開されたとき、それまでとは違ってテレビで顔が売れている分、やりやすかったということはあったでしょうね。

石倉:そうですね。今度はセリフもあるし、ちゃんと役もついていました。第一、ワイシャツも靴下も、人の垢がついたものじゃなく、きれいなものを着せてもらえる(笑)。俺もやっとここまで来ることができたかと思いましたね。

木村:ドラマで見る石倉さんって、職人さんや大工さんといった役どころが多いイメージがあるんですが?

石倉:そう、ナッパ服が似合うみたいですね。NHK連続テレビ小説『ひらり』(一九九二年)で、ヒロインの叔父・銀次役でレギュラー出演をさせていただき、それが終わって、市川崑監督から『四十七人の刺客』(一九九四年公開)のオファーをいただきました。東映を辞めて以来二三年ぶりに健さんと一緒に仕事をさせていただいたんですが、撮影所の楽屋に挨拶に行くと「サブちゃん、すごいじゃないか」と。「最初、台本を見たとき、その役は小林稔侍がやると思っていたが、石倉って書いてあってびっくりしたよ。サブちゃん、潮が満ちてきたな」と。隣で何の関係もないマネージャーが号泣していました。





©2016 「つむぐもの」製作委員会
 「つむぐもの」
出演:石倉三郎、キム・コッピ、吉岡里帆、森永悠希、宇野祥平、内田慈、日野陽仁
監督:犬童一利
配給・宣伝:マジックアワー
後援:公益社団法人 全国老人福祉施設協議会
厚生労働省タイアップ作品
2016/日本/カラ—/DCP/ヨーロピアン・ヴィスタ/5.1ch/109分



新幹線に乗って京都まで飲みに行く
いまを楽しみ、さらっと生きるのが石倉流



木村:ご結婚されたのは三八歳でしたね。

石倉:僕は結婚しないと公言していたんですが、あるとき地方から帰って、自分の洗った靴下が、ほこりをかぶって、凍っているのを見てわびしくなりましてね。ようやく役者で食べていける目途もついたんで、結婚をすることにしました。だけど、結婚式当日にビートたけしの離婚報道が流れ、記者はみんなたけしにマイクを向けて、さんざんな目にあいました(笑)。

木村:仲人を坂本九さんに頼んでおられたのに、その坂本さんが日航機事故で亡くなり、残念ながらそれは実現しなかったんですね。立会人が灰谷健次郎さん、武田鉄矢さん、そして司会はたけしさんと、まさに異色のキャスティングですね。

石倉:児童文学作家の灰谷先生には、武田鉄矢さんの番組で出会い、意気投合したんです。どんちゃん騒ぎもやりましたよ(笑)。

木村:そして、芸能界五〇周年で、『つむぐもの』(犬童一利監督) に初主演されたわけですが、ご感想は?

石倉:脳腫瘍で介護が必要になる頑固な和紙職人という役どころですが、主演だと責任が重く、お客さんは入ってくれるのかとか、どう演じたら伝わるのかとか、いろいろ考えることが多かったように思いますね。(高倉)健さんと(坂本)九さんには観てもらいたかったですね。

木村:石倉さんが書かれた『粋に生きるヒント』(ロングセラーズ刊)もいいですね。生きる上での教訓がたくさんありました。中でも面白かったのは、萬田久子さんから「橋爪功さんと一緒に飲んでいる。サブちゃんも一緒に飲もう」と京都から電話があって、その電話を切って、すぐに東京駅から新幹線で京都に行かれたというエピソード。その行動力って何なんですか?

石倉:行ける自分がうれしいんです。飲みに行くのに、わざわざ新幹線に乗って行く。「どうだい、おれも、ここまで来たぜ(笑)」。なにせ、生まれが貧乏でしたからね。あの日、京都の店に着くと、橋爪さんは「お前、あほか」と呆れ、萬田さんは「キャー」と叫んでいました。面白かったなあ。

木村:七〇代という節目を迎えて、これから、どういう人生を歩みたいと?

石倉:なんか、さらっとした感じで行きたいなと。仕事で役がどうこうというのも大事ですけど、そればかり考えていたら、人間が小さくなる気がするんです。僕は常に流されてきて、この年になっても、まだ人生を設計するという発想が無いんです。

木村:でも振り返ってみると、その時々で、いい人、すばらしい人のほうに流れ着いていますよね。

石倉:そういう方々に出会いたいという気持ちはあるのかもしれませんね。僕は、ただ、映画が好きで、役者になりたいという気持ちだけでやってきただけなんで、これからも、こうして、ああして、というのは無いでしょうね。

木村:そういう淡泊さ、無欲さが、健さんや九さんと出会えた理由かもしれませんね。

石倉:僕には、「いざとなったら何とかなる」という気持ちがあるんです。だから、いざとなってもいないのに、無駄なことは考えまいというのが僕なんです。高倉健さんが亡くなったときに、「あ、人って死ぬんだな」と思いました。人間たいしたことないなとも……。いまどうやって生きるかと悩むより、きょう、どこで飲もうかなというほうが楽しいじゃないですか。これが芸能界を流れて得た僕の哲学かもしれませんね(笑)。

木村:実に、深いですね。本日は貴重なお話をありがとうございました。





対談後記
「すべての人は、自分のミッションを持って生まれて、成功している人というのは、そのミッションに気づき、それを達成するために努力している人」なのだという。そのためには次の二つのファクターが必要で、「正しい場所にいること」と「それを実現できる場所で努力をすること」なのだとか。石倉さんの著書にある「棚からぼた餅は、落ちる場所に居なけりゃなんない」や「プロ意識は泥の中でつかめる~泣きは入れるな、てめえで選んだんだろ!」という言葉は正にその芯を突いたのであると思う。「四十七人の刺客」や「下町ロケット」で観かける事はあっても、実際にお目にかかったのは三〇年ぶりのこと。過ぎし日の懐かしさと、石倉さんの口調で語られる、波乱にとんだヒストリーの面白さに惹かれてお話を伺ううち、いつもの倍以上の時間を費やしたことに気が付いた。「経済的には最悪だったけど、愛情はたくさんもらいました。グレなかったのはそのおかげです」とおっしゃっているが、たくさんの人から愛情をいただくことができたのも、石倉さんの心に秘めた真摯な思いが、それだけ周囲の人の心に届いたからなのだと思う。これからは「路傍の徒花でいい」などと言わず、どうか「大輪の花」を咲かせて欲しいものだ。それにしても、一番話の盛り上がった甲府での武勇伝、書けなかったことが本当に悔やまれる。面白かったんだよなぁ、この話!


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