2016年12月22日14時12分

にっぽん日和 北海道 夕張市

にっぽん日和 北海道 夕張市



かつて北炭夕張新炭鉱の麓として栄えた、清陵町のズリ山から眺める、旧炭鉱住宅の風景。現在は清陵団地となり、元炭鉱労働者やその家族が今も多く住んでいます。

カメラ/渡邊春信 ライター/吉田彩乃 デザイン/北川原由貴 プロダクションマネージャー/池田大作 スペシャルサンクス/夕張市・ゆうばりホテルシューパロ



映画の町、夕張

「幸せの黄色いハンカチ想い出ひろば」には、年間約1万5000人が訪れています。2014年11月に主演の高倉健さんが亡くなった後には、彼を偲んでここに訪れる人も多く、2015年はなんと通常の2倍もの人々がやってきたのだとか。

幸せの黄色いハンカチ想い出ひろば
夕張市日吉5



 かつて炭鉱の町として栄えた夕張には、住人たちの娯楽のために映画館が林立していました。炭鉱が栄えた1960年代には、この小さな町のなかになんと17館もの映画館が建っていました。
 また、夕張市は映画のロケ地に選ばれることも多く、不朽の名作「幸せの黄色いハンカチ」の撮影に使われたことでも有名。黄色いハンカチが風にはためくラストシーンに使われた土地は、今も映画と同じように炭鉱住宅が残され、「幸せの黄色いハンカチ想い出ひろば」として一般公開されています。展示されている住宅の中に入ると、訪れた人々がそれぞれの思いを書いた黄色いメモ用紙がびっしりと貼り付けられていて、圧倒されます。
 映画の町であることに由来して、2000年からは本町の沿道に並ぶ店舗に有名な映画の絵看板をたてる事業が行われ、この道は「ゆうばりキネマ街道」と名付けられました。






キタキツネやシカも訪れる夕張シューパロダム



 夕張シューパロダムは、2014年、石狩川水系の夕張川上流部に建設されました。もともと、この地には1961年に完成した大夕張ダムがあり、かんがい用水、発電の目的で利用されていました。しかし、ダムをかさ上げする再開発計画を立案した翌年に北海道に台風が直撃。石狩川流域が観測史上未曾有の大水害に見舞われたことを受け、1982年に治水目的を含めた多目的ダムの建設を計画。1995年に着工したのが夕張シューパロダムでした。シューパロダムは、工事中も大夕張ダムの機能を残しながら建設されました。二つの距離は、わずか155mです。夕張の広い大地の中に浮かぶ大きなダム湖の景色は美しく、ツーリングの際にちょっと足を延ばして立ち寄る人も多いそうです。


知る人ぞ知るダムカード。全国各地のダムで、そのダムごとのデータを書いたカードがあり、収集するマニアもいるとか。



上の写真は、夕張川ダム総合管理事務所所長の山崎英志さん。いつもダム付近ではシカを見かけることが多いといいますが、この日はなんとキタキツネに遭遇。夕張シューパロダムが、自然と共生していることを物語っています。また、ダムの建設により湖に沈んでしまった国道や鉄道路線、シラカバなどの木々を眺めることもできます。

夕張シューパロダム
夕張市南部青葉町573





リタイア後、長年の夢を実現させたジャズ喫茶



FIVE PENNIES
夕張市千代田25-2


 「FIVE PENNIES」は、大崎雅志さん・ひとみさんがご夫婦で営んでいるジャズ喫茶です。共に市役所に勤めていたお二人。小さなログハウスを建てて、仲間と過ごす空間を作ることに憧れていた雅志さんが、退職後の2008年にオープンしました。
 「演奏するよりも、楽器を集めること自体が好き」と雅志さん。店内にずらりと並ぶ約20本のギターとグランドピアノ、ドラムセットなどはすべて雅志さんの私物。店内で流れるBGMは、約1000枚のレコードのなかからその日の気分に合わせて選んだもの。「本当は3000枚くらいないと、レコード喫茶とは言えない」と控えめなコメント。
 雅志さんが退職したのは、夕張が財政破綻した直後。「文化は予算の中からまず先に切られてしまう存在なんです。確かにほとんど黒字にはならないのだけど、意地でも守り、育てていかなくてはいけないと私は思っています。今は便利になってイヤホンで音楽を聞く人が増えたけれど、ぜひ生の音に触れてほしいものです」と語ってくださいました。




炭鉱町の名物「ぱんぢゅう」


小倉屋「ぱんぢゅう」
夕張市若菜10

 ぱんぢゅうは、たこ焼きのような形をしたピンポン球程度の大きさで、ふわふわの生地にぎっしりつまった餡子が特徴のお菓子です。小樽や札幌でも親しまれていますが、夕張では、炭鉱が栄えた時代に、汗をかきながら働いた炭鉱夫たちの疲れを癒すために作られていました。そのため、餡は、少し塩気が多めだったのですが、現在は塩分を少し減らしています。かつての名残からか「甘じょっぱさが美味しいね、というお客さんもいますね」と、店主の沼直子さんは語ります。
 沼さんはこのぱんぢゅう屋の2代目。1981年に先代からこの店を買い取り、引き継ぎました。「夫は単身赴任が多く、子供をつれて夕張の実家に戻っていたときでした。父から、『時間を持て余しているなら、お店を継いだら』とすすめられたのが始まり」と、沼さん。帰省の度に買いに来る人も多いそうで、「お盆の時など、多い時には1日で700個焼くこともあるんです」。
 先代が夕張の地に創業して60余年。ぱんぢゅうは炭鉱が閉山した今も、夕張の味として地元の人々や観光客のおやつとして親しまれています。




子どもが集うコーヒー店



夕張国道沿いにひっそりと佇む夕張サワダ珈琲店は、店内で焙煎したコーヒー豆と、コーヒーを販売しています。店主の沢田幸一さんがファンの吉田拓郎の曲が流れる店内の一角には、手作りの竹馬と、グローブ、ボールが。「店の前が、学校帰りの子供たちの遊び場になっているんですよ」と、沢田さんはどこか嬉しそう。「ここはコーヒー屋だから、試しにうすめて子どもたちにコーヒーを出したんだけど、まだ早かったみたいで。スティックシュガーを何本も入れてたから、それ以来子供たちにコーヒーを出すのはやめたんですよ」と笑います。
 札幌でコーヒー店を営んでいた沢田さんが、故郷の夕張に戻ってきたのは3年前。いつとはなしに子どもが集まるうち、地域の親御さんたちの間にも安心して任せられる遊び場として認められるようになったといいます。今年の夏には、お店の前に中学生たちがテントをはってキャンプをしていたといいます。



夕張サワダ珈琲店
夕張市紅葉山236-13




夕張の人々の努力の結晶「夕張メロン」



夕張友酉市場・代表取締役の多喜雄基さん。風変わりな名前の由来は、「酉年に仲間(友達)と作ったから」だそう。もとはメロンの小売商だった多喜さん。2005年に、当時の市場を運営していた卸売会社が自己破産して市場が危機的な状況に陥ったことを受け、なんとか市場を維持するためにと建てたのが、夕張友酉市場でした。


 夕張メロンは、JA夕張市から出荷される農産物の9割を占めている主要産物。品質を維持するために、農協と生産者が一体になった完全共撰体制をとり、「夕張メロン」ブランドの向上に取り組んでいます。また、夕張メロンの名称、メロンの図形、シール等を商標登録し、類似品と区別できるようにしています。今年5月に行われた初競りでは、史上最高値の二玉300万円で競り落とされました。
 「見た目できれいですねと褒められるよりも、美味しいですね。と言われたい」と夕張メロン組合・組合長の豊田英幸さん(写真右)。夕張でメロン栽培が始まったのは1923〜1924年頃。試行錯誤を重ねたものの十分な糖度が得られず、戦争の激化とともに一度は立ち消えになりました。再びメロン生産が見直されたのが、1960年。試験栽培を重ねて、夕張メロンのブランドを築き上げました。夕張メロンは、夕張の人々の努力の結晶なのです。



三菱大夕張鉄道を後世に




 三菱石炭鉱業大夕張鉄道線は、清水沢駅と大夕張炭山駅を結び、炭鉱夫たちの通勤用列車や、鉄鋼を運ぶ貨物列車用の路線として栄えました。開通したのは1911年。道路の整備が進んでいなかった1960年代頃までは、地域住民の交通手段としても利用されていましたが、炭鉱の閉山が相次ぎ、1987年に廃止されました。
 1999年、愛好家たちによる「三菱大夕張鉄道保存会」が発足し、南大夕張駅跡にてラッセル式除雪車、客車、貨物列車が保存されています。大夕張鉄道線の歴史を人々に語り継ぐべく、跡地では年に一回「汽車フェスタ」が開かれ、ラッセル車の雪かき用ウイングを動かし、モーターカーを走らせるなどのイベントを行っています。

三菱大夕張鉄道保存会・事務局次長の伊藤保則さんと、伊藤さんが撮影した、ラッセル式除雪車が除雪作業を行っている風景。除雪車は朝・晩の2回のみ走っていたため、美しい写真を撮るのに苦労を重ねたそうです。



雇用で夕張に貢献



シチズン夕張
夕張市南清水沢4-107-6

シチズン時計は国内生産にこだわり続け、時計内部の部品はすべて国内で生産。部品ごとに特化して全国の工場で生産を行っていて、シチズン夕張株式会社では、歯車部分を担当しています。1984年に夕張精密として設立され、2005年にシチズン夕張に商号を変更しました。その間に、規模は着々と拡大し、今年10月には第五工場が完成の予定。工場長の杉本治晃さんは、「夕張の町が縮小していくなかで、雇用の面で貢献できれば」と語っています。




実際の坑道で、炭鉱の暗闇を体験



国内最大級の炭鉱ミュージアム「石炭博物館」では、実際の坑道と石炭層をわずかな明かりだけで見学し、炭鉱夫たちが働いていた環境を体験することができます(平成28年度は改修工事のため見学できません)。地下展示室では、人形を使って炭鉱開発が始まった明治期から、時代ごとに炭鉱労働が変化していった様子を解説しています。写真は、昭和の炭鉱の様子です。
 また、実際に働いていた人々のパネル写真も展示されています。マスクをつけて働く人々や、炭で顔が真っ黒になった人々など、様々な様子が写されています。中には、炭が舞い散る鉱山の中でお弁当を食べる人の写真もあり、いかに過酷な環境の中で人々が働いていたかを伝えています。


石炭博物館
夕張市高松7




ユニークな名前が目を引く「ヤリキレナイ川」



「遣り切れない」という言葉を連想してしまいますが、由来はアイヌ語で「魚の住まない川」を意味する「ヤンケ・ナイ」、または、「片割れの川」を意味する「イヤル・キナイ」だろうとされています。ユニークな名前が話題になり、テレビで取り上げられたことも。石狩川水系の一級河川で、全長は5km。由仁町市街地や北海道道694号の北長沼由仁線沿いから見ることができます。


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