2016年04月13日10時00分

親方として相撲部屋を持ち、大相撲を盛り立てていきたい 元関脇 旭天鵬

木村政雄編集長スペシャルインタビュー

元関脇 旭天鵬 大島 勝


親方として相撲部屋を持ち、大相撲を盛り立てていきたい



多くの関取が、三〇代を前にすると、「引退」の二文字を意識するようになるという――。
ところが、三七歳で幕内最高優勝を果たし、四〇代に入って、敢闘賞をもぎ取り、
引退の危機が迫っても、「もう一度頑張ってみよう!」と土俵に上がり続けた関取がいる。
〝角界のレジェンド〟元関脇の旭天鵬関である。
モンゴルから十七歳で来日し、その柔和な笑顔の奥でどれだけの汗と涙を流したことだろう。
人気力士から親方へ、新たな相撲人生の決意を聞く。





大島 勝(おおしま・まさる)元関脇・旭天鵬
1974年9月13日、モンゴル・ナライハ市(現ウランバートル市ナライハ区)生まれ。92年2月来日。元大関・旭國の大島部屋に入門し、同年3月場所に旭天鵬の四股名で初土俵を踏む。96年3月、新十両、98年1月、新入幕。191センチの長身を生かした右四つ寄りを武器に活躍し、02年1月、新小結、03年7月、新関脇に昇進。05年にはモンゴル出身力士として初めて日本に帰化。12年4月、友綱部屋に移籍。直後の5月場所で初優勝。37歳8カ月での初優勝は史上最年長記録。14年9月、40代での幕内勝ち越し。同年11月、史上最年長で敢闘賞受賞。「角界のレジェンド」と称される。15年7月場所限りで引退し、年寄大島を襲名。優勝1回、敢闘賞7回、金星2個、幕内在位99場所(史上2位)、幕内出場1470回(史上1位)で697勝(史上8位)、773敗(史上1位)、15休。著書に『気がつけばレジェンド』。




木村:角界から初めてお客さまをお迎えして、お話をうかがうのが大いに楽しみです。実際にお目にかかると、やはり大きくて圧倒的な存在感ですね。

大島:大きいですか? まさか『5L(ファイブエル)』って服のサイズのことじゃないですよね?

木村:あははは。親方(元関脇・旭天鵬関、現・四代目大島親方)の日本語力とユーモアセンスには敵いませんね。でも、今日のマゲにスーツというファッションは、貴重なお写真になりますね。

大島:ちょっと、バランスが変ですけど、引退した時点で相撲取りは着物を着ないのが慣例で、五月二九日の断髪式までは、このスタイルなんです。

木村:現役のお相撲さんは着物姿ですから、引退までスーツはお持ちじゃなかったんでしょう。

大島:はい、引退した昨年七月場所の後すぐにモンゴルに里帰りすることになっていたので、名古屋から東京に帰った夜、サカゼン(9Lサイズまでの服を売る店)に行って、スーツ、シャツ、ベルト、靴、ネクタイなど全部揃えたんです。替えのシャツも三、四枚要るし、洋服生活がこんなに面倒とは知りませんでした。

木村:洋装で、いちばん難しいのは何でしたか?

大島:ネクタイですね。着物は首まわりも裾も、ゆったりしていますが、ネクタイは首を絞められるように苦しくて、締め方も難しいんです。モンゴルで親戚のお葬式があったとき、困りましたよ。ユー・チューブで締め方を検索して勉強したんですが、結果的に締めることができずに、会場に持っていって締めてもらいました。(笑)





2012年、大相撲夏場所千秋楽。優勝制度が制定された1909年以降では最年長となる37歳8カ月での幕内初優勝を果たし、支度部屋で賜杯を手に喜ぶ旭天鵬。
写真提供:共同通信社


木村:いまや、三横綱・一大関がモンゴル勢で、大相撲人気を牽引しているといっても過言ではないくらいですが、そのパイオニアのおひとりの親方が、どうして大相撲の世界に身を投じられたのか、その辺りからお聞かせください。

大島:モンゴルは一九九〇年まで社会主義の国だったんです。当然、入ってくる情報も限られていて、日本のことも「チョンマゲを結って腰に刀を差している」くらいのイメージしかありませんでした。民主化で一気に海外の情報が入るようになった頃、僕は中学を卒業して、溶接とかブルドーザーの技術を学ぶ専門学校に通っていたんです。

木村:将来の夢や目標はあったんですか。

大島:体格がよかったので、バスケットボールやモンゴル相撲からの誘いは受けていました。だからスポーツ界に進むか、四人兄弟の長男として手に職をつけて両親を助けるか……そんな感じでした。専門学校に進んだのは、もともと機械や車が好きだというのもありましたが、通学しながら国からお給料がもらえたのも魅力でした。親の給料の半分ぐらいありましたからね。だけど当時は反抗期というか、勉強より友だちと夜遅くまで遊ぶほうが楽しくて、父には怒られてばかり。きっと父はグレかけていた僕の将来が心配になったんでしょう。専門学校二年生の冬、「日本の大相撲が力士の募集をしている、お前なら年齢も体格もすべてクリアしているからウランバートルで行われる選考会に行け」と言い出したんです。この募集は民主化で日本との交流が活発になって初めて実施されたもので、タイミングがよかったということですね。

木村:なるほど、かわいい子には旅をさせようということでしょうね。私にも息子がいますから、お父さまの気持ちはよく分かりますよ。

大島:最初は驚きましたが、日本に行けるなんてめったにないチャンスだと思って、とりあえず選考会に行くことにしました。もちろん、その頃は日本がキラキラ輝く先進国だということはテレビなどを観て知ってはいましたよ。同級生の兄が持っていたソニーのウォークマンには衝撃を受けました。こんな素晴らしい技術のある日本に行ってみたいとも思いました。

木村:その選考会には、どのくらいの応募者があったんですか。

大島:一六〇人くらいです。多すぎたのか、まずモンゴル相撲を取らせて八〇人に絞ったんです。僕はモンゴル相撲の経験もなかったので一回戦で負けてしまい、帰る支度をしていたら、通訳の方が来て「親方がもう一回、相撲を取れと言っている」と言われ、たまたま勝って六人の合格者の一人に選ばれたんです。

木村:実際に来日されて、大相撲の印象はいかがでしたか。

大島:こちらは観光旅行か留学でもするような軽い気持ちだったから、まったくダメでしたね。





1992年、モンゴルから一緒に来日して大島部屋に入門した5人の仲間とともに初土俵を踏む。旭天鵬は後列右。その左隣には旭鷲山。当時は17歳で189.5cm、93kgだった。
写真提供:ベースボール・マガジン社




あの〝脱走事件〟の顛末と覚悟
旭天鵬関が本当の強さを身につけたワケ



木村:何がダメだったんですか?

大島:まず、炊きたての白いご飯で、吐きそうになってしまいました(笑)。もともとモンゴルでは米はあまり食べません。食事の基本は肉と小麦粉で作ったきしめんみたいな麺が中心です。米はチャーハンにしたり雑炊にしたりするので、白いご飯は食べません。それなのに丼に山盛りですから。モンゴルには生魚も食べる習慣はありませんし、冬はマイナス三〇度にもなる国で、日本の夏の蒸し暑さも、あり得ませんでした。

木村:そういった文化や環境の違いが、あの有名な(笑)〝脱走事件〟に繋がったんでしょうか?

大島:ずっと積み重なったものがあったんです。相撲の稽古は朝五時から。十七歳といえば寝たい年頃なのに毎日五時起きは耐えられなかったし、先輩力士の用事も多くて自分の時間もない。大部屋での雑魚寝は暑いし、イビキもうるさい……。それに当時、大島部屋には二七、八人の力士がいて、入門一〇年を超えても関取になれない人がザラにいました。この人たちがなれないのに、俺たちが関取になんてなれるわけないじゃん、と思ったんですね。

木村:ホームシックにかかって、マイナス思考に陥ってしまったんですね。

大島:そうですね。でも僕らパスポートを親方に預けているから、帰りたくても帰れない。そうしたら、六人のうちの一人が、渋谷にモンゴル大使館があるのを調べてきて、大使館には自国民を保護する義務があるはずだから、もし親方が来ても渡さずに守ってくれると思って、そこに逃げ込むしかないと考えました。そうして入門から約半年後、最終的には五人で部屋を脱走したんですが、親方とおかみさんが大使館に来て話し合いになって、旭鷲山ともう一人は部屋に戻りました。家に電話したら母が「つらいなら帰っておいで」と言ってくれたんですが、父は何も言わなかったですね。でも僕らは頑として帰国すると言い張って、十日後三人でモンゴルに逃げ帰ったんです。

木村:帰国されたままだったら、いまの親方は存在しなかったわけですが、もう一度やってみようと思われたきっかけは何だったんですか?

大島:脱走してから一カ月半後に、先代大島親方が部屋に残った三人を連れて、モンゴルに来てくれたんです。そのとき脱走した三人のうち、僕だけが両親と一緒に親方に呼ばれました。親方には「お前は絶対に強くなる。これからはモンゴル出身力士の時代になるから戻って来い」などと諭されました。そのときに思ったんです。選考会で僕が初戦に負けたときも「もう一回」と言って僕を呼び戻してくれた。脱走したのに僕だけに「帰って来い」と迎えに来てくれた。大関まで昇り詰めた親方(元大関・旭國関)がここまで自分に目をかけてくれる。だったらこの親方を信じて、熱い気持ちに応えたいなと思うようになったんです。

木村:二度も呼び戻してもらえたのは、それだけの実力や可能性を認めておられたからですよ。再来日は大正解でしたが、厳しい世界ですから戻ったときは、さぞ大変だったのではないですか?

大島:当然、歓迎はされないですよね。部屋の全員が無視ですよ。正直に言って、逃げ帰る前よりも、この時の方がつらかったです。涙が出そうになったけど、グッと堪えて黙々と稽古に励んでいると、その姿を先輩たちも見てくれていて、こいつはやる気があるんだなと分かってくれたと思うんです。少しずつ、みんな話してくれるようになり、部屋頭の旭道山さんも食事に連れて行ってくれるようになりました。

木村:いやあ、よく耐えましたね。

大島:そりゃ、最初に来たときとは全然、覚悟が違います。大相撲についても分かってきて、その上で「絶対に上に行ってやる!」と思いました。

木村:その言葉の通り、入門から四年で新十両昇進を果たされましたが、待遇は変わったんですか?

大島:十両になると個室がもらえるのが一番うれしかったです。幕下では自分が付け人になって先輩の用事をしますが、十両になると付け人がついて用事をしてくれるので自分の時間ができるんです。それに手取りで約八〇万円くらいお給料ももらえるので、給料ナシの幕下とは別世界です。それで、昇進から半年後、父にパジェロの新車をプレゼントしたんですよ。そういうことがモチベーションになって、相撲がますます楽しくなりましたね。その上、日本の大相撲中継がモンゴルのテレビでそのまま放映されるようになったんです。でも十両以下は映らないんです。同期の旭鷲山が幕内でバリバリやっていたので「僕も映りたい! こりゃ、十両に留まっている場合じゃない」ってね(笑)。で、幕内になれば今度は三役とかもっと上に行きたくなります。僕は、旭鷲山のように自分から進んで稽古をするほうじゃなかったんですが、故郷のテレビに映るためにも、稽古に力が入るようになりました。

木村:親孝行もできてよかったですね。現役時代の親方は一九一センチ、一六〇キロの恵まれた体格で、右四つから胸を合わせたがっぷりの体勢になると、横綱・大関だって互角に渡り合えるほどの強さが持ち味でした。驚いたのは、けがで休場されたことが一度もないんですよね?

大島:はい。僕はモンゴル相撲の経験がなかったので、旭鷲山のような技の種類がなかったんです。だから観ているほうは面白くなかったと思うけど、正攻法で戦うしかなかったんです。逆に旭鷲山は派手に技を決めたりして観るほうは面白いけど、結果的に、けがをしやすい弱点があったんです。僕がここまでやれたのは、旭鷲山が一歩前を歩いてくれたことと、正攻法の相撲でやってきたからかなと思いますね。

木村:最終的には旭鷲山関(最高位・小結)のポジションも追い越して関脇まで昇進し、三〇代後半からは「最年長記録」を次々に塗り替え、「中年の星」と呼ばれるようになった親方ですが、体調管理などはどのようになさっていたんですか?

大島:よく聞かれるんですが、僕は普通に食べたいものを食べて、自由にやってきました。酒は二九歳頃から飲み始めたかな。最初は日本の飴とかアイスやコーラに興味があったので、二〇代後半になって徐々に酒が飲めるようになりました。近頃はコーヒーにハマって、やっと大人の仲間入りができました(笑)。




若いしなやかな肉体が起こした奇跡
三七歳で、幕内最高優勝を手にして……





木村:親方といえば、忘れられないのがあの三七歳八カ月での初優勝です。快挙でしたね。

大島:優勝って、横綱や大関ばかりがするものだと思っていましたから、あのときは何が何だか分からなかったです。僕をスカウトしてくれた先代大島親方が定年退職となり、部屋を閉鎖するか、僕が引退して部屋を引き継ぐか決断しないといけなくなったんです。色々考え抜いて「自分は、まだいける」という気持ちもあって現役を続けることを選んで、友綱部屋へ移籍をしました。だから、もしあの場所で負け越したりしていたら、「それみたことか」と言われるので必死でした。七日目には勝ち星の数が、あの大横綱・貴乃花関と並んで歴代一〇位タイになったとマスコミが騒いでくれたので、気分もグッと上がりました。優勝はお世話になった方々への何よりの恩返しになりましたし、二三年半、相撲をやっていてよかったなあと胸がいっぱいになりました。

木村:優勝パレードでは、親方の八年後に入門した、横綱の白鵬関が旗手を務められました。異例なことですよね?

大島:同門ということで白鵬関が自ら進んでやってくれたんです。本当にありがたかったです。恩人で師匠の先代大島親方にも異例ですが、パレードのオープンカーに乗ってもらいました。ちょうど息子が生まれたばかりで、以前から密かに憧れていた、片方の膝に子どもをのせて、片方の手で賜杯を持つ写真を撮るというのも実現できて、うれしかったですね。優勝したことによっていろんな人に知ってもらえたことも大きかったですね。相撲に興味のなかった同年代の人からも、勇気をもらったとか、俺も頑張る気持ちになったとか言われて。白鵬関が三五回もやってるんでみんなマヒしているけど、優勝って本当にすごいことなんです!

木村:そうですよね。今年一月場所の大関・琴奨菊関の初優勝も、大変な盛り上がりでした。ところで、妹さんや弟さんも、来日されているそうですね。

大島:僕には弟が二人と妹が一人いるんです。関取に定着して収入も安定してきた頃、弟や妹も地元の学校を卒業する時期がきました。僕は日本の素晴らしさがよく分かってきたので、妹を日本の学校に入れたんです。いまではモンゴル出身力士と結婚し、子どもも授かりました。下の弟は日本に遊びに来ているうちに相撲取りになりました。結局、早く辞めたんですが、日本で家庭を持ち、仕事をしています。次男はモンゴルに残りました。

木村:お父さまの闘病も支えられたそうですが、どのくらいこちらへ?

大島:父を看たのは六年間ぐらいでした。肝臓病だったんですが、モンゴルの病院では、もう何もできないと言われ、日本で療養させました。日本の医療は素晴らしい。長男として父親に最高の医療を受けさせたい、そういったことも僕が相撲を頑張る材料になりました。番付が落ちれば収入も落ちる、治療もできなくなる、だから頑張らなきゃ、となるんです。




「角界のレジェンド」の今後の夢 モンゴル出身の初めての親方として




木村:一番私がお聞きしたかったことですが、親方は十一年前、モンゴル出身力士の中で初めて帰化をされました。きっと色々迷われたこともあったと思うのですが、どういう思いで難しい決断をなさったんですか。

大島:そうですね。多くの相撲取りは三〇代半ばまでに現役を引退します。三〇歳が近くなると、自分が辞めたときどうするのか気になり始めるんです。僕も三〇代を前に色々考えたんですが、何も思い浮かばなかった。モンゴルに帰って遊牧民になるわけにもいかないし、会社を経営するとか、そんな知恵もありません。僕は日本の相撲が大好きで、最後まで相撲と関わっていたい。そのためには何を成すべきか。いろんな角度から考えて親にも相談して決めました。つまり、帰化すれば親方になれる。そうすれば腹いっぱい、好きな相撲ができますからね。両親も、お前の人生だから好きにしたらいいと許してくれました。

木村:モンゴルの相撲ファンは、複雑な気持ちもあったのではないでしょうか?

大島:当初は、バチバチに批判されましたね。モンゴルに残っている家族は「息子を日本に売って、親兄弟がいい暮らしをしている」などと中傷されて、ずいぶん悩んでいたようです。でも、これは、親方になるための手続きの問題。それをちゃんと僕自身が説明したら、分かってもらえました。

木村:ご結婚は、その後になさったんですね?

大島:はい。日本で結婚するなら自分で戸籍を作って、嫁さんを迎え入れようと以前から決めていたんです。

木村:いまでは三人のお子さんに恵まれ、ご家庭も幸せいっぱいですね。話は変わりますが、なぜ日本人力士は勝てないんですかねぇ……。

大島:気持ちの問題だと思いますよ。例えば、ホームシックにかかっても、外国から来たわれわれは大使館に逃げ込まないと家に帰れない。日本人は、いくらでも帰れる。その違いでしょう。おめおめと逃げ帰ったら家族も恥をかきますから、やるからには関取にならないと帰れないという強い意識があります。また外国人は体が大きいしスピードもあるし。でも、いまは外国人のほうが目立って見えますが、一方で、じっくりと努力している日本人力士も大勢いますから、これからは変わってくると思いますよ。

木村:そうですか。それは楽しみです。さて、断髪式を前に決意を新たにされていることと思います。旭天鵬関改め、四代目大島親方としての今後の夢はありますか?

大島:当面の夢・目標は五月の断髪式を成功させることです。国技館で相撲を始めて最後も国技館で終わる重要なイベントです。いまは部屋付きの親方ですが、将来的な夢は、やはり自分の相撲部屋を持って、自分が先代大島親方に育ててもらったように、しっかりと後進を育てることですね。国籍の問題も含めて条件は全てクリアしました。

木村:親方の大島部屋再開、楽しみにしています! しかし自分の部屋を持つって、大変じゃないですか?

大島:親方一人ではできませんし、力士だけでもできません。応援者がいないと無理なんです。でも、それだけにやりがいも大きいです。もし息子が将来、「おやじがやっているから僕も」じゃなくて、本気で相撲をやりたいと言うなら、やらせてみたいですね。

木村:そこまで親方を夢中にさせる、日本の相撲の魅力って何ですか?

大島:分かりやすくて、周囲に影響されず、自分の努力次第でいくらでもやれるところです。天井は横綱まであります。モンゴルから来て、着物を着て、マゲを結い、日本の伝統やしきたりを身につけ、守ってきました。みんなで一緒に大相撲を盛り立てていければ素晴らしいことだと思います。

木村:そうですね。角界も様々な危機、試練を乗り越えて、いまがあるのでしょう。スポーツであると同時に、礼を尽くした日本の伝統文化でもあります。親方の柔らかい頭脳と感性と、その人懐っこい笑顔で、ぜひ、盛り立てていってください。本日はありがとうございました。




対談後記
桂小金治さんは子供のころ、父親から「一念発起は誰でもする。努力までならみんなする。そこから一歩抜きん出るためには、努力の上に辛抱という棒を立てろ。この棒に花が咲くんだ」と諭されたというが、旭天鵬関は文字通りその言葉を実践した人だといえる。慣れぬ異郷の地での体験は17歳の少年にとって、さぞかし過酷なものであったことは想像がつく。だが説得に訪れた先代大島親方との会食の席で、日本に残った仲間の家族に比べ自分の両親の寂しそうな表情を見て、心を入れ替え、「もう一回頑張る」と決意。その後幾多の試練に耐えて稽古に励んだおかげで、順調に番付を上げることができたという。正に「棒」が立ったのだ。そして37歳8カ月での幕内優勝。ついにその棒に大輪の「花」が咲いたわけである。幕内最多出場も成し遂げ、いつしかその存在は「レジェンド」と呼ばれるようになった。このパイオニアの存在があったればこそ、今のモンゴル勢の隆盛があるといっても過言ではない。いつも柔和な表情を崩さない好漢・旭天鵬関だが、4代目大島親方となった後は厳しい姿に変貌する予感がする。でないと、お弟子さん達の立てた「棒」に「花」を咲かせることなど到底できないもの。


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