2016年12月22日16時30分

ビジョナリーな人たち



夕張駅前の活性化を目指して

ゆうばり屋台村のオープンを機に、旭川から夕張に引っ越してきた橋場英和さん。ジンギスカン店の経営に始まり、今や夕張の活性化を目指して活動している。



橋場英和(はしば ひでかず)
旭川市出身。2009年夕張市に移住、ジンギスカン・串焼きの店つるちゃんをオープン。屋台村の村長、夕張飲食店連合会事務局長として夕張活性化に取り組む。


JR夕張駅のほぼ正面に建つ、赤い提灯を携えた大きな建物。一軒の飲食店かと思って暖簾をくぐってみると、中央にテーブルとイスを並べた共有スペースが設けられ、その両脇には、まるで屋台のようにしてラーメン屋や蕎麦屋などの飲食店が並んでいる。どこか高速道路のサービスエリアと似た雰囲気が漂うこの飲食店の集合体が、「ゆうばり屋台村」だ。サービスエリアとの大きな違いは、各店同士の横のつながりが密なこと。この屋台村の「村長」として全体を統率しているのが、橋場英和さんだ。
 橋場さんは旭川市の出身だが、夕張市が財政破綻した2年後の2009年にこの地へ引っ越してきた。きっかけは、同年9月にオープン予定だったゆうばり屋台村への出店を募集する新聞広告を見つけたこと。長く続けていた自動車販売店が立ち行かなくなり、次の職を探しているタイミングだった。橋場さんは、こう振り返る。
 「当時の私は、夕張市と同じくらい厳しい状況に立たされていました。今日までの年月は、私の人生の〝再建〟の道のりでもありましたね」
 まさに背水の陣で臨んだ移住だった。それが、今や橋場さんは屋台村の村長のみならず、夕張飲食店連合会事務局長や、夕張の地域活性を目指したプロジェクトを行う「YYプロジェクト(夕張市民による夕張駅周辺地域活性化推進協議会)」のメンパーとして、夕張の再建と活性化に向けて活躍しているのである。


家族みんなが笑顔で暮らす様子を思い描いて、夕張へ移住



 橋場さんの夕張移住の計画は、スムーズに進んだわけではない。
 「屋台村全体の運営会社に連絡すると、『夕張の雇用を促すためのプロジェクトだから、出店できるのは応募の時点で市内在住の人のみ』と断られてしまったんです」
 だが、橋場さんにはどうしても諦めきれない理由があった。職を失った直後に見てもらった占い師から、ログハウスで、「橋場さん夫妻と4人の娘さんたちが楽しそうに暮らしている姿が浮かんでくる」と言われていたのだ。そのお告げの直後に見つけたのが、屋台村の広告。調べると、屋台村の建物もログハウスだという。「これはもう屋台村で生計を立て直せということだ」と橋場さんは思ったという。
 再度頼み込んでは見たものの、やはり断られる。諦めかけていた矢先、予定していたジンギスカンの店が出店を断念。運営会社の社長から「立っているだけでいいから橋場さんにジンギスカン店を開けてほしい」と頼み込まれ、オープンするために、家族で夕張へ移住してきたというわけである。
 初めの3カ月は、特にリーダーを決めることもなく営業が続けられたが、限られた空間のなかでいくつもの店舗がひしめきあって営業をしていると、いつ客の取り合いが起きてもおかしくないような緊迫した状況になってしまっていた。そこで、各店主が集まって「村民会」が発足され、広報や注文の取り方のルールが決められることになり、屋台村の運営会社から「適任だ」として、リーダーを委されたのが橋場さんだったというわけである。
 以降、橋場さんは、ときに「よそ者が余計なことをするな」と夕張住民に言われながらも、屋台村の発展と、夕張市の活性化に尽力してきた。今年3月にはYYプロジェクトの一環として、名産品の「夕張メロン」を使った菓子やデザートを市内で作るための検討会に参加し、同じ屋台村で別の飲食店を運営している妻の店で出す「夕張メロンスムージー」を考案した。
 また、同プロジェクトでは今年8月、JR夕張駅前に市内の農家が生産した野菜類を扱う直売所を設けて、9月中旬までの週末に出店し、市内産のミニトマトやピーマンなどを販売した。
 移住してからはや7年。現在、屋台村の隣の敷地では、橋場さんの次女もカフェ・バーを構えている。占い師の言葉通り、家族が夕張のログハウスに集まって、笑顔で過ごす生活を取り戻したのである。
 「今後、夏にはビアガーデンを出すなどして、更に夕張駅周辺を盛り上げていきたい」
 今の夢は、夕張の活性化を更にすすめることだ。






夕張の魅力を発掘し、伝えていく

炭鉱時代の遺物こそが夕張の歴史であり、財産である。佐藤真奈美さんは、これらを観光客に紹介し、ときには地元の人々が再認識するきっかけを作っている。

佐藤真奈美(さとう まなみ)
大分県別府市出身。2001年立命館大学卒業、2009年には札幌国際大学大学院観光学研究科修士課程修了。その後、NPO法人炭鉱の記憶推進事業団で空知地方の炭鉱遺産を活用したまちづくりに携わり、「炭鉱の記憶アートプロジェクト」などを担当。2015年から清水沢プロジェクトとして独立し、2016年に一般社団法人設立。



「よそ者」が夕張再建の一端を担っている。東京から移住した鈴木直道市長をはじめ、夕張で活躍する人々を見ていると、そんな思いがよぎる。なぜ「よそ者」が財政破綻した市の再生を支えるのか。それは、物の価値というのは、時として他者の目によって発見されるものだからである。一般社団法人清水沢プロジェクトの代表理事を務める佐藤真奈美さんも、夕張の魅力を発掘している「よそ者」の一人だ。
 佐藤さんの活動内容は、炭鉱遺産を活用して、地域内外の人々が出会う「場」をつくること。そのために、ガイドやアテンドをすることもあるという。
 「暮らしている人々のうちの誰もが地域資源だと思っていなかったものに価値を見出して、夕張を訪れる人々に紹介していくのが私たちの仕事です」
と、佐藤さんは語る。
 活動を始めたきっかけは、佐藤さん自身が初めて夕張の炭鉱住宅を見たとき、その風景にとても感動したからだった。
 JR北海道の客室乗務員だったときのこと。大分出身、立命館大学卒の佐藤さんは、少しでも北海道のことを知るために、休日はドライブに出かけていた。その時たまたま通りかかった夕張市清水沢の清陵団地の風景に心を奪われた。清陵団地は、1982年に閉山した北炭夕張新炭鉱の炭鉱住宅だった場所。同じ大きさ、同じ形の集合住宅が、規則正しく何列にも並んでいる。夕張の人々にとっては何の変哲もない炭鉱住宅の風景だったが、佐藤さんの目には、なんて美しく、そして不思議な景色なんだろうと映ったという。
 「まずは住宅の多さに圧倒されました。どこか古くさくもありながら、区画整備された都会のニュータウンのようでもある。しばらく見入ってしまいました」


ほとんど宝探しのよう


この体験をもとに、大学院に入学をし、「炭鉱遺産を活用したまちづくり」をテーマに修士論文を書いて、それを実現しようとNPO法人で活動を始めたのが佐藤さんの活動の起点だ。11年、夕張市の許可を得て、清水沢のズリ山の草刈り作業と階段の設置を行った。捨石を堆積させてできているズリ山自体が炭鉱の町の資源であり、山上からは佐藤さんが感動した炭鉱住宅の景色を見渡すこともできる。登れるようになれば、かつて炭鉱の町として栄えた夕張の魅力をより多くの人に感じてもらえると考えたのだ。
 現在、清水沢のズリ山には人が上りやすいように階段が設けられている。随所にベンチも置かれていて、一休みしたり、風景を眺める人たちに便宜もはかられている。
 「地元の人々と市外の人々が一緒に作業をし、完成までには3年かかりました」
 どのようにして魅力ある資源を発掘するのかと尋ねると、彼女はこう答えた。
 「ほとんど宝探しのようですよ。炭鉱が閉じたことによって廃墟となってしまった旧北炭清水沢火力発電所のように、地元の人々が『ゴミ』や『負の遺産』と捉えているものも、夕張の歴史を肌で感じられる大切な資源なんだと、よそ者は感じます。現場にひとつひとつ出向いて、その場所が持つ価値や魅力をどのように伝えられるかを考えています」
 11年にはこの場所を舞台にして現代アートの展示を行った。
 「大正15年に完成したこの発電所は、炭鉱の発展とともに栄え、閉山を機に衰退しました。その後、地元企業が工場・作業用地として取得して、建物の解体を進めながら操業していたので、交渉をして建物自体をアートプロジェクトに利用させてもらったのです」
 ガラスがはずれた窓に、ぽっと黄色いオオハンゴンソウの花を置く。廃墟を舞台にすれば、これも作品になり、退廃した風景のなかで、生命力溢れる花の美しさが対になって映し出される。
 こうしたイベントを行うほか、日常的に人々が立ち寄れる場所として、旧炭鉱住宅の団地内に「清水沢コミュニティゲート」も設けた。ここが清水沢プロジェクトの活動拠点にもなっている。
 「夕張に来た人々に、歴史を肌で感じてもらい、このエリアの価値を再評価してもらえるように取り組んでいきたい。博物館と連動した活動も活発化させたいですね」
 夕張において、「よそ者」という言葉には再建への期待が込められた褒め言葉なのかもしれない。

「Open the door!」余蕾(よ・らい)
そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト2014出展作品 写真提供/そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト





木村の視点


  市長を含め、ここでご紹介させていただいたお二人は夕張市以外のご出身、「町おこし論」で言われる「よそ者」といわれる人たちである。たしかに二人とも、「内部にいる人たちの気付かない価値を発見する客観的な目」を持っていらっしゃるのだろうが、それよりも、この人たちに会って感じたのは、「事実の中にプラスを発見する能力がある」ということであった。「……だから」という前提に対して、ただ手を拱いて「しょうがない」と諦めるのではなく、「……だから」の後に「こそ」を付けて、「……だからこそ」頑張る強い気持ちを持っていらっしゃるということだ。後へ引けないピンチの局面から、居を夕張に移して、屋台村村長になり、さらにYYプロジェクトメンバーとして活躍されている橋場さんにしても、夫と二児を札幌に置き、夕張の魅力の再発見に奔走する佐藤さんにしてもそれは同じ。願わくば、この人たちの活動が、特定の個人に依存する属人的な試みに終わることなく、夕張市全体に波及して行ってほしいものである。

 

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